●「画像の問題系 演算性の美学」(gnck)を読んだ。以下リンクのPDFで。
http://www.bijutsu.co.jp/bt/img/GH1_gnck.pdf#search='%E3%80%8C%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%B3%BB+%E6%BC%94%E7%AE%97%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%AD%A6'
●まず面白いのは、このテキストが、画像の「技術」ではなく「メディウム性」についての考察であることだと思った。
例えば、メディウム・スペシフィックというものを、絵画なら、絵画でしか出来ないことを追究する、というものだと考えるのではなく、「これは絵画(絵の具とカンバス)である」ということを意識させつつも(それを条件としつつも)、そこに絵画以外の「何かしらのイメージ」を媒介(懐胎)しているという、二重性を実現させるものだ、と考えるならば、ドット絵が、それがドットであることを意識させつつ、別の何ものかのイメージを懐胎している点を重要視するこのテキストは、メディウム・スペシフィック的だと言ってもいいのではないか。
(ドット絵のメディウム性というものを、ドットであるからこそこのイメージ、であるのと同時に、ドットであるにもかかわらずこのイメージ、であるという二重性が成立しているような状態、という風にも言えるのではないか。)
だから、おそらく演算性の美学とは、ある固有のデジタルイメージが実現している時に、それを実現させるための演算形式の仕組みを明らかにするということ(演算性の自己言及)だけでなく、その演算形式が、そもそも演算形式そのものから直接導かれるわけではない「異質なものとしてのイメージ」を同時に孕んでしまう、その両者が分かちがたく重なりあったところに見出されるのだと思われる。例えば「グリッチ」という現象(エラー)への注目も、《画像形式によって、グリッチの仕方は大きく異なる》こと、つまり、グリッチが演算形式の違いを意識化させるという点を指摘するだけでは終わらない。
《とはいえしかし、最も興味を惹かれるグリッチは、キャラやポルノのグリッチである。それは、画像としての吸引力が強ければ強いほど、その像がいかに現前しているかを明らかにする現象=グリッチが見えてくる、ということなのである。》
ここでは、グリッチが、演算形式(よりまし)とイメージ(もののけ)の両者にかかわっている(両者を横断している、あるいは、両者の結合のなかから――その結晶のようにして――あらわれる)ということが重要なのだと思われる。
(たんに、ドット絵やジャギーというローテク性、グリッチというエラーが、「覆い隠された演算形式」あるいは「抑圧された物質性」のようなものを露呈させるという話ではないだろう。イメージと演算形式とが対出現・分離するという出来事のなかからグリッチが浮かびあがる、ということだと思う。「ピュアグリッチ」と「グリッチアライク」との対立が批判されている――そのどちらでもないものとしてグリッチが捉えられている――のもそのためだろう。)
●そして、すごく面白いと思ったのは、《人間の写真》を《キャラの頭身へとデフォルメ》させるという、JNTHEDの「デフォーム」というシリーズについて書かれた下の一文。
《切断されたパーツは境界線のジャギーを隠そうともせず、拡大された瞳にはJPEGで滲んでいる。ニアレストネイバー法で拡大された画像は、複数の解像感を持っている。》
一つの像が、複数の異なる演算形式、異なる解像感によるパーツの切り貼りから出来ている、ということが露わになることによって、いわば「画像」における(あるいはフォトショップにおける)「メディウム・スペシフィック」があらわれる、と読んでいいのだろうと思う。
特に、一つの像に複数の異なる解像度が含まれているという観点(解像度と解像感は厳密には違うけど、実作を離れて「複数の解像度を持ったイメージ」を考えることはできる)は、ぼくにとっては目から鱗というか、今まで気付かなかったけど、そこに注目すると確かにすごく面白そう、という感じで、見通しをぐっと広げてもらった感じがする。
●このテキストは、デジタル画像のメディウム性が考察されているというだけでなく、《最小限の手数》でイメージを十全に成立させることが称揚されているという点でもモダニズム的(ボードレール「現代生活の画家」的)なのだと思う。驚くべきなのは、そのようなモダニズム的な視点から、現代のデジタル画像についてのこのような説得力のある論述が可能であった、ということだろうと思う。
《ここまで述べてきたことは、像の現前とは、そもそも絵が持つ魔力(=魅力)であり、最小限の手数でそれが十全に成立しているものは、それゆえにそのメディウムを明らかにし、そしてそれは美しい、という話である。
この美意識を、つまり、像の現前に演算処理が介在していることの、その画像的なあらわれを、私は「画像の演算性の美学」と呼びたい。》
《「画像の演算性の美学」とは、かのSFの命題のごとく、高度に魔法化し、透明化していく画像というメディウムについての、それが透明化する前の、その原理的な美についてのノートなのである。》
●ただ、ぼくとしては、手数の切り詰めよりも、そのイメージが解像度の違いや不均衡を内に含んでいるかどうかの方が重要であるようにも思われるし、既に「魔法化、透明化されたメディウム」から、ある種の不均衡・不透明を含んだイメージを掴み出すこともまた、同様に重要であるように思われる。つまり、《像の現前に演算処理が介在していることの、その画像的なあらわれ》が、その像自身から観取できるような像の創造は、手数が多かったり、また、高度に透明化されたメディウムにおいて実現された画像でも可能であるはずだし、今後は、その両者を同時に考えることこそが重要になってくるように思われる。
●あるフレームのなかに、異なる演算形式だけでなく、異なる解像度が混在しているという状態をイメージすること、異なる演算形式の間のコンフリクトがあるだけでなく、異なる解像度による不連続性もあるのだとイメージすることは、たんにデジタル画像の問題や、美術の問題にとどまらない、もっと大きな射程をもつことであるように思われる(そうすると、メディウム・スペシフィックではなくなってしまうし、テキストから離れてしまうけど)。そして、異なる解像度というのは、亀裂であると同時に(演算形式が同じなのだとすれば)連続性としても考えられる。
(以下はテキストとはまったく別の話。ぶっちゃけ、この世界には、すごく頭のいい人もいれば、それほどでもない人もいるし、耳のいい人もいれば悪い人もいる。ある事柄について詳しく、繊細に知っている人もいれば、ざっくりとしか知らない人もいる。そして、それぞれの人によって、詳しい事と疎い事の配置や濃淡も異なる。そういう人たちの間でも、なんとか話が通じ、ある程度の対話や共通了解が可能であるということ――あるいは、本当は共通理解など成り立っていないのに、なんとなく成り立っているかのように思える事態=イメージが成立すること――を、一つの像のなかに複数の解像度が混在しているということだ、と考えることもできるのではないか。解像度の違いの混在を「この世界」の前提とするのならば、たんに、あらゆることをクリアに、高解像度にしていけば相互理解が深まるということにはならない、とか。)