●とあえず「客観」と言える科学的な共同性と、政治的・社会的な共同性とを分けて考えた方がいいのと同様、それらとは異なる器として、芸術的な共同性も、分けて考えた方がいいようは思う(感性と政治性は、まずは混ぜない方がいいと思う)。
科学は、人類が今まで蓄積し磨きをかけてきた「科学的な体系と手続き」によって追及され、検証されるもので、例えば「E=MC²」は、現時点で知られている限りにおいては、宇宙のどのような場面においても絶対的な規則として作用する。しかし、それと同じような手続きによって、人権とは何か、死刑は是か非か、という問いを問う(正解を出す)ことはできない。それは社会的な問いであり、社会的な共有を目指して議論され、政治的に解決されるしかない問いであろう。
では芸術的な共同性とはどのようなものなのか。例えば、ある日の夕日をみてしみじみとした感慨を得たとする。このような感慨そのものはありふれたもので、誰にでも起こり得るし(夕日への感慨は、貧しい者も富める者も関係ない)、このような感慨こそが人生の「内容」であり、このような感慨を抜きに「人」の存在や生を考えることは出来ない。しかし同時に、その感慨は心という閉ざされた自律システムの内で起こることであり、それを直接的には他人へと転送できないし、それ自体として他人と共有することはできない。それは、現れては消えるだけで、外から見れば何の生産性もないとも言える。芸術はこの、共有できないもの、生産物として指させないものの共同性の創造にかかわると思う。
クオリアという語を嫌う人も多いが、しかしクオリアという概念を認めることで、芸術的な共同性を、科学や政治からいったん切り離すことが可能になる。
勿論これらは、現実の特定の場面においては絡まり合っている。例えば、ある美術作家なり作品なりが、美術史のなかで、あるいは美術館のなかで、特定の位置を占めるか否かというのは、端的に政治の問題であろう。とはいえ、美術作品はそのような政治のために作られるのではなく、政治はたんに不可避の付帯的な条件であるということでしかない。美術という営みが、美術史上での位置取りゲームでしかないとすれば、その存在意義そのものがなくなってしまう。あるいは、美術に関する言説とは、芸術と政治の接点に生じるものだ、という事もできる。
(例えば、「性的関係」は常に政治的であり権力にかかわるが、「性的経験」は内的、私秘的なものであり、科学にも政治にも還元されない、ということを例として考えることもできる。性的他者という問題を、社会・政治—倫理の問題として捉えると「性的関係」となり、芸術—クオリアの問題として捉えると「性的経験」になる。「関係」は「経験」に還元されないし、「経験」は「関係」に還元されない。また、性的他者を科学的に記述することも可能だが、その時、政治的な側面や内的、クオリア的な側面は見逃されがちになる、など。)
●ここで「メディウム」というものを考えることができる。メディウムメディウム性を、科学、社会・政治、芸術というそれぞれ異なる側面が、持続可能、反復可能なある一定の結びつきとして結合している状況と考えればどうだろうか。
例えば、デジタル画像のメディウム性は、(1)科学的な技術としてのコンピュータ、(2)コンピュータとそのネットワークの社会や資本への浸透・普及の現状、(3)それをつくる人(そして見る人)のクオリア、という三つの側面の結合形式と考えることができる。あるいは、小説だったら、(1)科学としての印刷技術、(2)社会的な識字率の高さ、文字(国語)教育の浸透、そして出版ネットワークの成立、(3)作家(読者)のクオリア、という三つの側面の結合形式、という風に考えることができる。
これは、一人の人(メディウムとしての「わたし」)が、(1)科学的、物質的身体システムとして、(2)社会的、関係的な存在として、そして、(3)閉ざされた心的システムとして、というように、それぞれに自律した異なる多数の層の横断的な現象として存在していると考えられることとパラレルであろう。
(ここでは、1.2.3を、基礎構造から上部構造へと上がって行く階層とみるのではなく、下位の構造を条件としつつも、それぞれに独立した自律したシステムとして考えている。例えば、神経ネットワークが「心」の条件としてあるとしても、神経ネットワークと「心」とは次元の異なる別の自律システムであると考えるように。あるいは、細胞はそれ自体で自律したシステムであるが、同時に、器官や身体の構成要素—下位システムでもある、というように。)
つまり、メディウムメディウム性は、科学、社会、芸術のどの側面にも還元されない。三つの自律した側面の、事後的、偶発的な結合(横断)によって成り立っているのだから。故に、メディウムへの意識は、三つのどの側面からなされる記述に対しても、その記述の不完全さを意識させ(どの記述も全能ではない)、その記述に一定の緊張を強いることになる。
●科学的な共同性、社会・政治的な共同性、芸術的な共同性を、それぞれ、人の共同性への追究の「異なる器」として分離して考えることは、実際の場面においてそれらが絡まり合っているという事実を意識するために必要であり、そしてその絡まり合いが、どのような組成で、どのような成分比からなっているのかを分析するためにも必要であると思う。
(ここで言っていることはきわめて大雑把だ。例えば、社会・政治的側面にしても、カップルや、親しい少人数のグループにおける政治性と、国家的、人類的規模での政治性とは、まったく異なるものとして考えなければならないだろう。)
誰もが、この三つのすべての側面から自由にはなれない(すべてに拘束される)が、人によって、そのどこに重点を置くのかは違っているだろうと思う。そして、そのどこに重点をおく「べき」かという事を、外から言うことはできない。
●19世紀のフランスの画家であるセザンヌの作品が、21世紀の日本に生きる誰かを撃ち、その人に「内的作用」を起こさせる、ということがあり得る。だがそのためには、(1)百年以上前に描かれた絵が描かれた時とほぼ同じ状態で持続しているという、油絵の技術的条件が必要であり、(2)セザンヌはえらい画家だから(無名の他の誰かたちよりずっとえらいという排他的判断)作品をちゃんと保存して展覧しなければならないという社会的共通了解やそれを認定し実現する制度があるという条件も必要であろう。そして(2)については、言説の抗争によって書き換えも可能だろうし、崩壊してしまうこともあり得る。
でも、そのことと、セザンヌが誰かのクオリアを撃つ、という出来事とは、また別のこととして考えられなければならないと思う。
●あっ、でもなんか、これって結局、真・善・美って言ってるだけなのかも。