●例えば、他者というものが、社会・関係という相のなかで「あらわれ」た時、それは倫理的な問題となり、それが内的な経験という相のなかで「あらわれ」た時、クオリアの問題となる。そして、他者の実在とは、それが関係の相としてあらわれている時にも経験の相としての側面を捨てることができず、経験の相としてあらわれている時も関係の相としての側面を捨てることが出来ない、そのような状態を強いるような存在として他者が「あらわれる」ということだ、と言える。
(フィクションの中のキャラクターであれば、それがクオリアとしてだけ――「わたし」を気持ちよくさせたり刺激したりするためだけ――あらわれることもありうるし、逆に、関係の相としてだけ――その作品の構造の一部として機能するためだけ――あらわれることもあり得る。
とはいえ、キャラクターが「人を模したもの」である以上、ほとんどの場合は準-他者的な両義性をもつものとしてあらわれるだろう。)
逆から言えば、他者が、倫理としてあらわれる場合も、クオリアとして現れる場合も、そのあらわれの背後に「他者(自律した心的システム・観測者)の実在」が感知されているということになる。とはいえ、「他者の心」を直接知覚することはできないので、これはそう「信じられている」と言うことしかできない。
この、「信じられる」しかない「他者の実在」がメディウムとなることによって、倫理的なあらわれとクオリア的なあらわれが、「わたし」が「もつ」ある「一人の人」というイメージのなかで二重化され得る。
(だから、「目の前から即刻いなくなって欲しい人」や「存在そのものが許せない人」という強いクオリアも生起し得るのだが、そうであってもその人を「消す」ことが出来なくなる。)
このような、他者のメディウム性を、メディウムの他者性と言い換えてみることもできる。
メディウムとは、あるイメージが、関係の束(の効果)であると同時に、自律性をもつ一つのものでもあると信じられる、という二重性を可能にする根拠であると信仰された「幻の何か(実在という概念?)」であり、逆から言えば、そのような二重性が成り立っている時にのみ、その背後にあらわれるものだ、と言える。あるものがメディウム性をもつ時、そこに再帰性があらわれる。あるいは、階層性の破れがあらわれる。逆から言えば、そこに再帰性や階層性の破れが生じた時に、メディウムがその効果として見出される。
(「わたし」のメディウム性ということも言える。「わたし」は、自分自身を、社会的・関係的なものとして自己認識することもあり、内的・私秘的システムとして現象させることもあるが、どちらか一方に還元し切ってしまうことはできない。「わたし」というメディウムが両者の横断を可能にする――というか、強いる。「わたし」は、関係――上位システム――と、閉じた自律性――下位システム――との間に起こる「階層性の破れ」として生起する。)