●ツイッタ―における清水高志さんの発言から。とても興味深いのでメモとして引用させていただく。
《一日、あれこれ読んだり考え事をしたりしてゆっくり過ごす。。ハイエクは集団を成立させ、有効に機能させる行動規範やルールを媒体的なオブジェクトとして捉え、そのオブジェクトに能動的かつ自律的な働きを見いだす。自生的体系がそこには生まれるというのだが、》
《そうしたオブジェクトを擁した集団のなかでそのオブジェクトが残ったり、大きくなったりする理由を、「淘汰」のモデルで考えている。一方で、今西は動物にも行動規範としての「文化」があるとし、機が熟するとそれが一種の能動性をもって一斉に動物集団のメンバーを変化させると考える。》
《つまりそのようにしてサルは、「一斉に」直立する。今西のいう「文化」もまた、媒体的なオブジェクトに他ならないのだが、それが「一斉に」集団の全体を変化させるのは、必ずしも生存のために強いものが選ばれたわけではない。》
《むしろそうしたオブジェクトにとって本質的なのは、「集団を成立させる(可変的な)メディウムである」ということだ。》
《ようするに、別に適者生存の仮説を導入しないでいいんじゃないか。集団を成立させている媒体的なオブジェクトとしての行動規範、ルールがあって、それを巡ってみなが緩く結びついているうちに、勝手にルールが変わった。それで進化を説明してもいいではないかという考え。》
《問題を人類に限って考え、集団を人間社会に限って考えた場合、たとえばホッブズは完全に闘争的なモデル、最大の強者しか残り得ないがゆえに実質的に皆が全滅するような局面を想定して、社会契約論を持ち出す。》
《しかしルソーが考える自然状態にあっては、人類はそこまで密集して同じものを求めあっていない。点在している。求心力が起こるところにだけ起こっている。。それは何かというと、ルソー自身は言っていないが、先に述べたオブジェクトとしての行動規範だろう。》
《そして全生物が、そのように点在しつつ、ときたまその行動規範やあり方そのものを変化させつつ進化するものなのだとしたら。。それが今西の言う「棲み分け」ということだろう。》