●引用、メモ。岡本源太「眼差しなき自然の美学に向けて」(「現代思想」1月号)より。
《アドルフ・ポルトマンとレイモン・リュイエの洞察を引き継いでプレヴォーは、動物の外観が「非有機的[anorganique]」であることを重視する。体表の紋様や色彩は、生体の化学反応であるかぎり無機的とは言えないが、解剖学的構造や内部の新陳代謝から比較的自立しているため有機的とも言い切れない。動物の外観は、身体から(わずかに)離脱している。そこに、個体や種の保存の機能というだけに縛られない、外観の美的潜在性が生じてくる。》
《プレヴォーによれば、動物の外観は身体機能に完全に一致しておらず、、むしろ脱身体的なイメージを形成するがゆえに、性関係や捕食関係にとどまらない関係を他の動物や人間と取り結ぶことができるという。しかも、パラドクシカルなことに、このイメージはかならずしも見られることを想定していなかったからこそ、そのつど更新されるような潜在力をもつ。進化論的に見れば、眼の発生よりもまえにすでに生物は多様な外観をもっていた。そのとき眼差す主体は存在しなかったのだから、外観にはいかなる機能もなかっただろう。ただ眼差されることのないイメージだけがあった。それが事後的に眼差しのまえに差し出されるようになったのである。》
●ここでは三つのことが言われている。(1)イメージは身体から(わずかに)離脱している。(2)生物の外観の多様性は眼の発生に先立っている。(3)眼の発生によって、外観の多様性(イメージ)が眼差しのまえに差し出され、事後的に発見される。これはまさに、ヴァーチャルなものがアクチュアル化されるということだろう。例えば、ビッグデータが扱えるようになることによって今まで見えなかった人間の傾向が可視化される、ということも、眼の獲得によってイメージが発見される、ということと同じような出来事なのではないか。
とはいえこのテキストは、「眼によるイメージの発見」ではなく、「眼以前のイメージの機能」への注目に触れて終わっている。つまり、アクチュアルなもののヴァーチャル化という方向性だろう。
《イメージに眼差しが必要ないのだとすれば、見るものと見られるもの、あるいは見えるものと見えないものの関係とは別のところに、「イメージ」の力を問わねばならない。》
しかしそれは、具体的にどういうイメージなのだろうか。おそらくその一端は、テキストに引用されたプレヴォーの次のような言葉からうかがえる。「イメージそれ自体が関係である」こと。
《フリードバーグは、イメージを観者との関係、「相互作用」でしか考えないために、イメージそれ自体が関係であることを忘れている。イメージの効力は、観者をすでに捉えて巻き込んでしまっている力関係の場ないし布置がまさにイメージであることを、常に前提としている。》
●ちょっと必要があって、『チベット死者の書』と『ロクス・ソルス』を読んでいた。いちいち場合分けして数え上げるような律義な具体性と、そこからくる不思議な単調さという意味で、この二つは似ている。