●ハーマン「代替因果について」(岡本源太・訳「現代思想」2014年1月号)の読書ノート。出だしから、第2節ジグソーパズルまで。


実在論の擁護→精神なき原子とビリヤードの実在論ではなく「怪奇実在論
(おたがいに底知れない深淵から合図を投げ合いながらも、はっきりとふれあうことのない、対象たち)
→機会原因論の伝統との関係(存在者同士の直接作用は不可能)
懐疑論の伝統との関係(諸対象の直接的つながりのない並列)
◇だが、すべての関係を統括する孤絶した超存在者は放棄。
◎宇宙のあらゆる部分でローカルに展開されている代替因果の支持。


代替因果→「代替」「因果」
「因果」→因果の復活---カントのコペルニクス的展開の拒絶---存在と思考とが同一であるというバルメニデスの教説の否定
→「人間/世界」の対という認識論的な暗礁から逃れること
《ビリヤードボールそれ自体が人間から隠されているのと同様に、一つのビリヤードボールは別のビリヤードボールからも隠されている。》
「代替」→関係は決してその構成要素たる自立した実在と直接的に出会わない。
〈実体〉決して関係に還元されない実在
〈対象〉実体+実体から閉め出されたもの(=関係のための代替物や媒介?)


「代替」→あらゆる形態の自然主義に対立するもの=生気なき世界(自然的であれ人工的であれ)
「哲学」の自然科学への攻勢→「対象についての思弁」(人間的事象---ことば、テクスト、政治権力---のみしかない世界からの脱出)
→諸科学と同じ世界を、別の仕方で扱うこと
「因果」→それを作用因に還元してしまわないように思索する
「代替因果」→形相因に近い---形相が互いに直接触れ合わず、ほとんどなにもない共通の共有空間において、融解、融合、解凍される。


二つの存在者の影響→ただ第三者の内部での出会いによる(第三者のなかで、二つの存在者が並列して実存在し、相互作用が起こる)
→対象の溶解した中心核の理論(存在論プレートテクトニクス)


1.二種類の対象


フッサールハイデガー・その後継者たち
→対象を暗黙のうちに主役に抜擢した(人間存在を中心に据えることに固執しつつも…)
フッサール(「志向的」「観念的対象(感覚的対象・ハーマン)」の上に体系を基礎づける。)
ハイデガー(道具分析→実在的対象を哲学に復帰させる)
フッサール(感覚的対象)ハイデガー(実在的対象)→補完的


ハイデガーの道具分析(対象に対する関係---知覚・理論化ではなく、将来の目的のためにそれを頼る)
→下手をすると、たんに実践的(凝視・観察する前に日常的関係を……、という話になる)
→実践的関係といっても、対象を完全に把握するわけではない
(神格化された豹と暮らす部落の男は、豹を観察する科学者以上に実在に近づいているわけではない)
「見る」時に対象を歪めているが、「使う」時にもまた歪めている。
◎それは人間だけの話ではない(犬は骨の全実在にふれているわけではない、イナゴとトウモロコシの茎、ウイルスと細胞、惑星と衛星、の関係も同様…)
→事物の実在を歪めるのは「人間の意識」ではなく「関係それ自体」
◇あるものが「現にそこに存在している」→そのものが「なにがしかの関係」(知覚的・理論的・実践的・因果的)を通して示されている
◎「対象」が役に立たない→(アクセス可能な外形が否定される)把握できるすべてを越えている→「対象」が隠された深淵へと脱去する
ハイデガーが開いた奇妙な実在論---(存在は海洋底でぼんやり明滅し、触れ合うことができないのに、それでもなにか通じ合っている)


フッサールの「対象」
現象学は、ある対象が別の対象をどのように壊したり燃やしたりするかについて語れない(世界がどのように「意識」に与えられるかの研究=実在的対象ではない)
しかし、「現象」は、新しい意味・観念的意味において「対象」である
→実在のシマウマや灯台が直接的なアクセスから脱去してしまったとしても、それらの「感覚的写し」は少しも脱去しない(知覚が経験するのは「物体から遊離した性質」ではない)。
→どの瞬間のシマウマも可能なすべての知覚を汲み尽くすことはできないが、「わたし」にとってすでにそこに「存在して」おり、その「部分的プロフィール」において「全体として」ある。
シマウマ特有の視覚的・概念的プロフィール(つかの間のイメージ)→→→統一された感覚的シマウマ(より深いところにある「対象」)


◆感覚対象の因果的ステータス
○実在的対象(決して触れ得ない)→因果関係は代替的【代替因果】
○感覚的対象(同一の知覚空間に並立して存在)→代替因果とは「逆」の問題(なぜすべての現象はすぐさま「単一のかたまり」に融合しないのか)
→諸現象の間で障壁になっている知られていない原理(対象間の相互作用が部分的に妨げられたり阻まれたりする)【緩衝因果】


相互作用が生じる唯一の場所→感覚的・現象的な領域=「あらゆる関係は表層的である」
(独立した形式は深淵にのみあり、劇的な相互作用は表層を漂う)
→ならば、「実在的対象」がいかにして「現象の領域」に挿入されるのか、を発見せねばならない。
→「実在的対象」の感覚への侵入は「横並び」になっている(無媒介的な相互作用が生じないよう緩衝が差し挟まれている)→それらが接触しあうには「感覚的な次元」で何かが起こらねばならない。


2.ジグソーパズル


フッサール---意識の志向性(意識しているのはつねに「なにか」である)
→志向性が同時に、一つでもあり、二つでもあるというパラドクス
○第一に、わたしと松の木との出会いは統一された関係である。
○第二に、しかし、わたしと松の木とは単一のかたまりに融合するのではない
→「わたし」「松の木」双方とも、第三の項「完全な志向的関係」の内部に住まっている。


第三項=全体としての志向---内部(「わたし」→「松の木」)
◎「わたし」(実在的対象)
→松を見る時、わたしの生を構成しているのは「松を見る(現象)」に夢中になることであり、他者から見られた自我ではないから
◎「松の木」(感覚的対象→実在的な松は「志向」には住まわない)
→実在的対象はあらゆる関係の外部にあるから
◎「全体としての志向」(実在的対象)
→松についてのわたしの志向が幻覚であったとしても、「志向それ自体」は進行しており、外部と関係しているかどうかは「あまり」関わりがない
→◆故に、《わたしたちは「実在的志向」をもっており、その志向の核心に、「実在的なわたし」と「感覚的な松の木」が住まっている》+【志向の外部に、脱去した「実在的な松の木」がある】
◇「実在的な松の木」は、「未だ知られざる経路」を通じて志向を触発する→「感覚的な木」はむき出しの本質ではない(さまざまなノイズ=ブラックノイズに覆われる)


◆三つのブラックノイズ(構造化されたノイズ)
○第一(木は中心的・本質的性質をもち、その本質は感覚的な木にも常に属していて、それを失うと「志向の行為主体」は、「木」の同一性を見失う)
○第二(表は、刻々移ろう偶有的特徴をもつが、それは「木」の同一性の確認を妨げない)
○第三(木は、周囲の無数の対象と関係しながら生えていて、そうした諸対象も、同じ「全体としての志向」のなかに住まっている)


◆「対象間の五種類の関係」(世界に住まう諸対象は、つねにこのうちどれかの関係によって接している)
1.包含→「全体としての志向」は、「実在的なわたし」と「感覚的な木」のいずれも包含している。
2.隣接→「志向」のなかにある、さまざまな「感覚的対象」は「横並び」になっていて、互いに触発しあうことはない(ときおり、融合したり混合したりする)。
「感覚的対象」の隣接物は、特定の限度内で、対象の同一性を損なうことなしに混ざったり変化したりする(霧が木の前に漂う、など)。
3.真率→「わたし」は「感覚的な木」に没頭し、夢中になっている
〈包含ではない---包含は「統一された志向」の役割→「統一された志向」は、「わたし」に「真率さの劇場」を提供する〉
〈隣接ではない---木は「わたし」に、「わたしの生を満たす」ような仕方で触れる---「わたし」は木を真剣に取り上げるのにエネルギーを使う→しかし木は「感覚的対象」であるので何も返さない〉
4.接続→「全体としての志向」は、かならず「実在的対象」との「実在的接続」から引き起こされる。
〈隣接する二つの「感覚的対象」--木と水車小屋--への「わたし」の真率な没入は「志向内部」の出来事であり、「統一された志向」ではない〉
→よって、「実在的対象」それ自体は、知られざる「代替手段」を通して、別の「実在的対象」との結合から生み出される。
5.まったくの無関係→事物の通常の状態(実在的対象のほとんどが互いに影響を与えない)
〈わたしが真率に没入していても、感覚的な木は、わたしとまったく関係をもたない→酸素は「実体的な木」からもたらされるのであり、木の知覚からではない---「感覚的な木」→ある志向の核心でしか生き残れない幻影→隣接する諸感覚的対象は、「わたし」がそれらに同時に真率に没入する限りで、ただ「代替的」に関係する〉


「因果」→代替的、非対称的、緩衝的
○代替的→諸対象はただ「感覚的プロフィール」を通じてのみ出会う。感覚的プロフィールは、別の存在者の内部に基礎を置く。
○非対称的→最初の出会いが、常に「実在的対象」と「感覚的対象」との間で起きる
○緩衝的→わたしは木と融合しない、隣接する諸対象も融合しない。


→「ある対象」の(非対称的・緩衝的な)内的な生から「代替接続」が生じるのは「occasionally」(ときおり・機会原因的)に、である。
→新しい対象の誕生


○「持続的な出会い」とは---統一された対象内(実在的なもの→出会い→感覚的な代替)
→「因果」---上のような障ぎが、破壊・中断されて起こる。
(「実在的対象」と「感覚的対象」の横並び=「志向内部の実在的対象」と、別の「志向外部の実在的対象」との接続のための「機会原因」→通気口や輸送トンネルの構築)


◆「五種類の関係」と「五種類の対象」と「三つの形容詞」と「三種類のノイズ」
○五種類の関係→「包含」「隣接」「真率」「接続」「無関係」
○五種類の対象→「実在的志向」「実在的自我」「実在的木」「感覚的木」「感覚的ノイズ」
○三つの形容詞→「代替的」「非対称的」「緩衝的」
○三種類のノイズ→「性質」「偶有」「関係」
→どのように「これらの要素が相互作用するか」「あるタイプの関係が別のタイプの関係に変化するか」「あたらしい実在的対象が〈実在的対象と感覚的対象との相互作用〉から生まれるのか」「感覚的対象が幽霊列車のように連結・解除されるのか」
オブジェクト指向哲学の主題


哲学の問題はジグソーパズルに似ている→われわれはジグソーパズルに閉じこめられている→パズルこそがまさしくこの世界の謎なのだから。