●7日の日記に、映画『アヒルと鴨のコインロッカー』の分析が24ページにもなってしまって、これでは一望性がない、ということを書いた。これは、ぼくにはある複雑さをできるだけまるこごと、そのまま捉えたいという気持ちが強いからなのだが、これをもう少し圧縮するいい方法はないのだろうかと思う。しかし、要約や図式化ではダメで、それだと圧縮したものから、元の複雑さを再現できない。あるいは、再現の精度がすごく低いものになってしまう。ある複雑さを、一望化できるくらいにまで圧縮して、さらに、その圧縮されたものから元の複雑さがかなりの程度に再現可能である、というような圧縮の技法はないものだろうか。
おそらく数式というのはそういうものなのだろう。ある複雑な操作を一般化、抽象化することで圧縮し、一望出来るものとし、そうすることで、その操作に対してさらに別の複雑な操作を加えることが可能になる。そして、その圧縮された操作は常に正確に再現可能である、と。
(とはいえ、それを使えるようになるためには、多くの知識と長いトレーニングが必要だろう。)
ある複雑なもののもつ複雑さを、出来るだけ縮減しない形で捉えようとするのはまあいいとして、それだけだと、それに対してさらに複雑な操作を加えようとすると、えらい複雑なことになって、操作課程で間違いも起きやすくなる(ぼくはいつも、こういうことをやろうとする傾向がある)。そこで、元の複雑さがある程度は再現可能であるような圧縮が必要となる。
●たとえば「絵を描く」という技術も、世界に対するこのような圧縮技術の一つなのではないだろうか。絵の場合、再現のために人間の「感覚」という変換装置を通す必要がある。
(要約や図式化は、ものごとのざっくりとした理解にはとても有効だが、それを使って何か別の操作=思考をしようとする時、その精度の粗さが問題となってしまう。その粗さは、操作を繰り返せば繰り返すほど増幅されてしまう。だから、ある操作=思考を行うとき、その結果に対し、どの程度の粗さまでなら許容されるのかが意識される必要がある。)
(まあ、その、粗さの増幅によって、まったく別の図柄が生じることを楽しむ、ということはアリだと思うけど。)