●『ユリ熊嵐』の第六話を観た。六話の直接的な感想ということではないのだけど、観ながら考えたことを書く。
幾原作品では、具体的なイメージと抽象的な概念が同列に並んでいる。それは、具体的なりんごと、「果物」という概念が、一枚の皿の上に並んで出されているようなものだろう。この感じを上手くつかめないと、それをメタファーとして理解してしまうのだけど、それはたんに文字通り、字義通りの抽象的な概念なのだと思う。たとえば「ウテナ」に出てくる「世界の果て」というのは、何かの比喩でもないし、そう呼ばれる秘密組織でもなくて、そのまま「世界の果て」という概念で、概念から手紙が届き、それぞれ具体的な姿や事情を持つ生徒会のメンバーたちは、概念からの手紙に従って決闘をしていると考えればいいと思う。そして、決闘の勝者に与えられるという「世界を革命する力」というのもまた、まさにそのまま文字通りの「世界を革命する力」という概念であり、具体的に「どんな力」だとは言えないものだろう(それが、具体的な事情をもつ個々のキャラの上に着地する時に、はじめてそれぞれ異なる別の具体性を得る)。幾原作品では、抽象的概念が具対物と同等に扱われ、具対物と同等の作用をもたらすような、「作用するもの」としてある。
ピングドラム」という言葉がまさにその代表だと言える。ピングドラムという言葉は、何かを意味するものではなく、「ピングドラム」という言葉そのものとしてある。それは、次のような寓話を思い出させる。
ある領地の領主がいて、息子が怠け者でまったく働かないことに悩んでいた。そこで領主は息子に、ある土地を与え、そこに宝が埋まっていると言う。息子は必死でその土地を掘り起こし、隅から隅まで探すが宝などみつからない。しかし、その「宝を探す」という行為によって土地はよく耕かされ、豊かな作物を生む畑となった。
ここで、最初に示された「宝」という言葉は実体をもたないが、しかし、最初は意味を持たなかった宝という言葉が、その言葉によって引き起こされた行為によって、豊かな実りをもたらす畑という具体的なものになり、宝という言葉に、後から意味を充填する。そして、宝を探すという行為は事後的に、畑を耕す労働へと「意味」をかえる。ここで、「宝」は「畑」のメタファーなのではない。「宝」という具体性のない概念が、「畑」と「労働」を生むための起点となり媒介として作用したということだ。宝などなかった、が、宝という概念が、人を動かし、畑を生んだ。
ピングドラムという言葉もまさにそのように作用する。ピングドラムという具体性のない(それらしい)言葉が、人を縛り、動かし、関係付け、それによって「運命」という言葉の意味が180度変化する。
「透明な嵐」という言葉もまた、「透明な嵐」という字義通りの概念であり、それは確かに、同調圧力が強く支配している関係性のなかで作動している何かではあるのだろうが、しかし、同調圧力のメタファーということではないと理解するのがいいのではないかと思う。その感じがつかめないと、「熊」は何を意味していて、「食べる」ことは何を意味している、とかいう不毛な解釈の罠にはまって作品からどんどん遠ざかる。幾原作品の「暗号解読」的な楽しみとは、そのような見立てを読むということではなく、もっと構造的なもの(諸細部間の構造的な配置とその変化を追う、みたいな)だと思う。
(たとえば、ミスリードを誘う罠がいっぱい張り巡らされているのを承知で、あえて先の展開を予想してみる、というようなこと)
概念を字義通りに受け取るということは、その意味を開いたままにしておくということ(とりあえずは、字義以上のことは読まないということ)でもある。「ピングドラム」において、「運命」という言葉の意味が、最初は「過去によって未来が既に定められている」という意味だったのが、物語の進展によって、「偶然にそうであったことを運命として受け入れる」というような意味に変化するという出来事が起こっていた。このようなことが可能なのは、抽象的な概念が、(何かのメタファーとしてではなく)抽象的であるままに作品のなかで作動しているからだと思う。
●今回はわりと「ピングドラム」っぽい回だったように思う。「月の娘と森の娘」のお話は、「ピングドラム」の「箱」の話のヴァリエーションだろうし、炎に焼かれる銀子のイメージは、炎に焼かれるりんごのイメージに近いと思った。