●右翼と左翼の違いは柄谷行人で説明できるのではないか、という半ば冗談のような話を聞いた。『探求2』には、「単独性-普遍性」の軸と「特殊性-一般性」の軸とは違う、ということが書かれている(「この私」とは、特殊性、個別性ではなく単独性の問題である、と)。その時、右翼は単独性-普遍性の軸上にいて、左翼は特殊性-一般性の軸上にいる、と言えるのではないか、と。つまり、たまたま「この日本」に生まれた「この私」という偶然性(単独性)を肯定し、それを根拠にするのが右翼で、そうではなく、「私」や「私の国」を、一般的な世界のなかの一つの特殊(個別)例として考えるのが左翼だ、と。まあ、戯れ言のたぐいではあるが、妙に納得してしまった。
(柄谷行人のちゃんとした読解としてはこのような読みはトンデモで、そもそも単独性-普遍性の軸は、後に『トランスクリティーク』でカント的普遍的な「世界市民」に繋がってゆくのでまったく右翼的ではないのだけど、でも、「この私」「この犬」あるいは「固有名」が単独性をもつというのならば、たまたま日本に生まれてしまった者にとって「この国(=日本)」もまた単独性をもつと言えるのではないか、という解釈も可能であるはず。実際、『探求2』の最初の方に、ある個別の国家は国家というクラスのなかの特殊にすぎない……しかしある戦争が第二次世界大戦と固有名で呼ばれることで単独性をもつ、ということが書かれているので、国家もまた日本という固有名をもつことで単独性をもつと言えるはず。)
この戯れ言をあくまで戯れ言としてもう少し推し進めて、単独性-普遍性、特殊性-一般性という二つの軸を、昨日の日記で触れたクラウスに倣って4元群であるかのように配置してみることもできるのではないか。すると、右翼の軸、左翼の軸以外にも別の軸が生まれる。




まず、対偶となる二つの軸、「単独性-一般性」「特殊性-普遍性」という一対の軸がみいだされる。これが何に相当するのか考えてみると、前者がリアリズムの軸で、後者がポエティックの軸と言えるのではないか。さらに、「単独性-特殊性」「普遍性-一般性」というもう一対の軸も見いだされる。ここでは、前者が心身問題(特に永井均ヴィトゲンシュタイン的問題)の軸、後者が、科学の軸と言えるのではないか。
「単独性」「普遍性」「特殊性」「一般性」という四つの概念的な元をもつ群(もどき)によって、「右翼と左翼」「リアリズムとポエティック」「心身問題と科学」という、三つの「対立する概念」の配置(関係)が書けるのではないか、という戯れ言。