●アートフロントギャラリーの浅見貴子展を観た。
浅見さんの作品については過去にさんざん書いているので、改めて付け加えることもあまりないのだけど、今回の展示を観て思ったことの一つは、正方形のフレームは何かを凝集させるのに適しているのだなあということ。凝集というだけでは正確ではないかもしれなくて、二点並んだ二メートル四方の作品は、どこか中心へ向かって凝集していくのでもなく、外へと拡散してゆくのでもなく、二メートル四方のその広がりそのものとして凝集されているという感じがした。二メートル四方という拡がりであり、二メートル四方という凝集である、というような。
長方形のフレームとなるとそうはいかなくて、どこかに過不足が出る。過不足が出るというのは、だから悪いということではなくて、それが動きになるし、フレーム外との繋がりということでもある。
でもこれは、フレーム全体を引いて見た時の感じで、少し近寄って、フレームが視界の外に出るくらいの距離で観るとき、そのことはあまり関係なくなる。とはいえ、描いている画家がフレームの形に影響をうけないはずはないので、フレームの形の違いは、一つ一つの点や線のリズムにも出ているはずではある。
まわりくどい言い方だけど、作品が特定の大きさをもち、それは作家がそれをつくっている時と同じ大きさである、というのが素朴な意味での美術作品の特徴でもあるけど(素朴な意味で、というのは、現在の作品は必ずしもそうではない、ということ)、そのことの意味が強く感じられる作品だと思った。
●そのことをいったん認めた上で、具体的な「庭にある木」の形態や構造が、明滅する点や線のリズムへと変成してゆくといえる浅見さんの作品では、具体的スケールが抽象化されてゆくという不思議な感触もあるように思われる。浅見さんの作品のもっている具体的なスケール感が、そもそも「あるスケール感が抽象化さたもの(その結果)」として現れたものだ、と言ったほうが適当かもしれない。
(具体的に表現された抽象性、まあ、すぐれた美術作品はみんなそうだ、とも言えるけど。)
●浅見さんの作品では、(1)点や線のレイヤーがはっきり分けられていて、(2)しかし各レイヤー間は極めて圧縮されている、ので、複数のリズムが混濁しないまま重なり合う、という出来事が実現されていると思う。複数の、複雑なリズムが強い圧によって圧縮されているにもかかわらず、その一層、一層それぞれがクリアーで混濁しないという点がまずひとつすぐれたところだと思うけど、それだけでなく、画面のなかに点や線のつくる複合的リズムに還元されない空間性のようなものがどこかに残っていて、リズムはその空間性に絡み付くようにあり、その空間性によって発生しているように見える。そのことが作品を、簡単ではないものにしている。
これは要するに、アトリエの庭にある具体的な木のスケッチから作品がはじまっているということの言い換えでしかないけど、そのことはやはり強いのだなあということを、浅見さんの作品を観ると感じる。
一点、一点の作品に、順列組合せ的なバリエーションではない、ある固有性を立ち上げているのがスケッチなのだ、という言い方をすることもできるけど、それよりも、素朴な意味で、ああ、絵だなあ、と思うし、素朴な意味で、絵の強さ、というものを感じる。
(ここで「絵」とは、アートの文脈上にある「絵画」ということではなく、誰でもが描くものとしての「絵」のこと。)