●『ユリ熊嵐』第十話。どんどんすごくなってゆく。
構造と一回性。わたしは、すべてのどの「わたし」でもあり得たのに、なぜ「このわたし」なのか。というか、すべての「わたし」がなぜ「このわたし」としてしかあり得ないのか。
たとえば、かつて銀子を「友達の扉」の向こう側へ帰した紅羽の母の行為を、今回、るるを「友達の扉」の向こうへ帰す紅羽が反復する。あるいは、かつて、浴槽の外から銀子の髪を洗っていたるるが、今回、銀子の位置へとスライドして、浴槽のなかで紅羽に髪を洗ってもらっている(紅羽がるるの位置に移動する)。同一の構造の反復があり、その同じ位置が、紅羽の母から紅羽へ、銀子からるるへという風に、異なる「このわたし」にスライドする。つまり、紅羽はかつての母の位置に、るるはかつての銀子の位置に立つ。
あるいは、銀子-紅羽-純花(わたし-スキ-邪魔者)という関係と同一の構造が、るる-銀子-紅羽(わたし-スキ-邪魔者)という関係において反復される。だから、後者で前者の銀子と同じ位置に立つるるには、銀子の気持ちもよく分かる。しかしそれでも、るる-銀子-紅羽という関係における、銀子への気持ちと紅羽への嫉妬から逃れられるわけではない。つまり、あなたもわたしもどちらも同じ「わたし」である(でしかない)ことを知りつつ、しかし、わたしはあなたとは決定的に違う「このわたし」でしかあり得ない。
(「わたし」は、構造的であると同時に一回的である。もし、「わたし」が徹底して独我論・一回的であるか、または徹底して相対論・構造的であるかすれば、そもそも矛盾はないのだが、「わたし」は常に、独我論的であると同時に相対論的でもあり、どちらか一方だけに還元されない。)
人類学が記述する、アメリカ原住民の遠近法主義というものがある。たとえば、すべての存在は、ヒトも動物も物も、人間と同様の魂を持っていて、しかし、それぞれの存在が異なる形式を持っているので相手を人間だとは認められないという考えだ。熊も人間もどちらも自分が「人間」だと思っていて、相手を熊(獣)だと思っている、と。たとえば、ヴィヴェイロス・デ・カストロは次のように書いている(「内在と恐怖」現代思想2013年1月号)。
《『生を巡る最も重大な危機は、人の食物がもっぱら魂でできているという点である』》
《(…)全ての(もしくはほとんどの)存在が人間であるというならば、外見を額面通りに受け取ることなどできるはずがない。人間に見える何かは動物であるかもしれないし精霊かもしれない。動物や人間に見える何かは精霊かもしれない、というように。》
《(…)それぞれの種や存在には活喩法的もしくは擬人法的な統覚作用が付与されており、自分自身を「人」だと見なしている。その一方で、生態系における他のアクタントたちを、被補食者もしくは補食者(…)、精霊(…)、あるいは彼らの文化における単なる人工物といった非-人格、あるいは非-人間だと見なすのである。ジャガーは人間をイノシシだと見なし、仕留めた獲物の血をトウモロコシから作ったビールだとみなす。》
《人間およびジャガーは同時に人であることができない。部分的かつ暫定的にですら、ジャガーにならなければ血をビールだと経験することは不可能である。パースペクティヴィズムは、それぞれの種が自身を人と見なしているとするが、それはまた二つの種が同時にお互いを人と見なすことができないとも主張している。》
ヒトも熊もどちらも魂としては人間である。その意味で対称性がある。しかし、熊が人間の位置にある時、ヒトは獣でしかあり得ず、ヒトが人間の位置にある時、熊は獣でしかあり得ない。両者を同一平面で人間として両立させることはできない。熊の魂は人間であり、ヒトの魂も人間であり、その意味で同等で、しかしたとえ両者がそれを認識していたとしても、熊はヒトを食べ、ヒトは熊を撃つ、という意味で敵対性の構造(補食-被補食関係)は解消できない。断絶の壁とは、このような遠近法主義そのものではないか。
これは、銀子-紅羽-純花(わたし-スキ-邪魔者)という関係と、るる-銀子-紅羽(わたし-スキ-邪魔者)という関係(構造)が同一であり、対称的でどの項も交換可能なのにもかかわらず、前者で「わたし」の位置にいる銀子は、後者で同じ位置にいるるるのことを理解できない(理解できたとしてもどうすることもできない)、つまり、この二つの同一の構造は同一平面上では両立できない、ということとも似ている。
●だが十話で効いているのは、るるの存在の特異性であろう。過去のお話において、るるにとっての「失われた大切なもの」とは「邪魔者」と同じ存在であった(弟)。だからこそるるはここで、るる-銀子-紅羽という関係において「邪魔者」の位置にいる紅羽に近づき、紅羽の「失われた大切なもの(銀子との記憶)」を彼女に返そうとする。
(銀子がるるに、「失われた大切なもの(弟の蜜壺)」を返したように。ここでも、役割・構造が次々と転写されてゆく。)
●構造ということでおもしろい存在は蝶子であろう。蝶子は、ユリーカの仕掛けた「嵐が丘学園システム」を忠実に実行しようとして、そもそもそのシステムの目的であるユリーカのたくらみの邪魔をしてしまったという逆説が前回描かれていた。そしてさらに、十話においては、そのシステム(構造)が、その目的も欲望の主体も見失ってしまった後に、ただ意味もなく(増長さえして)作動しつづけている様が描かれている。欲望の主体であったユリーカは死に、紅羽を排除する必要などもうなくなってしまったにもかかわらず、紅羽を排除するシステム(排除の儀)だけは存続しており、蝶子はまさにその無意味な(自分が無意味にしてしまった)システムを担うリーダーとなっている。とはいえ、そもそもユリーカだって欲望の主体とは言えず、蝶子と同様、システムのための道化であったわけだけど。システムは、ただシステムの存続だけを目的として(オートポイエーシス的に)存続しつづけようとする。
一回性としての「このわたし」は、代替可能な構造としての「(誰でも)わたし」に予め飲み込まれており、そのなかで目覚めるしかない。
●「わたし」は、独我論的であると同時に相対論的であり、どちらか一方には解決されない。そのことを、遠近法主義的に、対称的であると同時に宿命的に敵対的であるという構図によって描こうとしてきたというのが、ここまでのこの作品のあり様なのではないか。そしてその先にいるかもしれない「あなた」とは……。