●「honto」で、ピエール・レヴィの『ポストメディア人類学に向けて』を注文したら、夜中に注文して、翌朝の九時くらいに出荷しましたとメールがあり、その日の夜の八時前に届いた。すごいなと思うと同時に、別にそんなに早く届けることもないのではないかとも思う。
このことに限らず、すばらしい仕事ぶりこそが、結局自分の首を絞めるのではないかと、最近よく思う。資本主義は競争だから、基本的にいろんなことのサービスがどんどん良くなってゆくはずなのだけど、消費者に対するサービスがよくなるというのは、労働者としてはどんどんキツくなってくるということになる。
グローバル資本主義と闘うというとかっこいいけど、その前に、なんだかんだ言ってきっちりと仕事をしてしまう自分と闘う方が、社会の変化のためになるのではないかとも思う。きっちりと仕事をしてしまうのは、そういう性分だからという人もいるかもしれないけど、大部分の人は、きっちりやらないと「他人様に迷惑をかける」から申し訳ないと思ってしまうからで、でも、それこそが「空気」をつくる。別に、多少なら他人に迷惑かけてもいんじゃね、そのかわり、他人に迷惑かけられてもギリギリまで許します、という方が、社会全体の利益としてもいいように思われる(「空気」に抗する方法はこれしかないのではないかと思う)。
一方で、どんどん便利に(他人から迷惑かけられなく)なってゆく反面、どんどんキツキツに(自分も他人に迷惑かけられなく)なってゆくのが今の日本の空気だとすれば、そこに様々な隙間や穴をつくってゆくのは、「いい加減さ」なのではないか。
(ネットワーク化した社会では、責任者を特定してそこに責任を集約させるのでもなく、責任の所在をあいまいにしてうやむやにするのでもなく、責任が「個」に集中するリスクを避け、責任を分散させ、皆で分け持つ必要がある――し、それが可能になる――と思うのだが、「他人様に迷惑をかけない」という思考法は、本来分担されるべき責任を「個」という場に集約してしまう傾向を生み、その傾向が逆に「あらかじめ責任を回避しおく仕掛け」を何重にも担保する必要を強いるものとして働き、結果、自分にも他人にも厳しいという、ギスギスした環境を生むのではないかとも思う。)
だから、自分にも他人にも甘い人こそが、「空気」に対する闘争を行っていることになると思うのだが(と、言うのは簡単だけど、これ実現するのは無茶苦茶難しいことだとは思う)。
まず時間にルーズになることが第一ではないか。時には意識的に遅刻する。電車もバスもあたりまえに時間を守らない。そうすれば、遅刻してもその人のせいではなくなる。責任が分け持たれる。
例えば、お話として映画の撮影現場を想定してみる(まったくの想像だ)。そこで、一番の大御所と言える俳優が、誰よりも速く現場に入り、台本なども事前にがっつり読み込んできているという形で暗黙のプレッシャーをかけるとなれば、新米は遅刻することなど許されないというピリピリした「空気」が生まれるだろう。新米は、下手をうったら抹殺されるかも、という恐怖のなかで仕事をすることが強いられる。だがここで、権力や地位をもつ人こそが、意識して、率先していい加減になる(いい加減をする)としたらどうか。時に大御所が意識的にポカを演じ、撮影に遅刻するなどして、「今日は申し訳なかった、この埋め合わせは必ずするから」とか言って、キャストやスタッフを豪華な食事にでも招待する、という風だと若手ものびのびやれるだろうし、現場はずっと「いい社会」となるのではないか。
(例えば、どうしても自分はきっちりやらないと気が済まない性分だという人は、きっちりやってしまったその分、だらしない他人を許せばいいのだと思う。ああ、今日も遅刻さえできずにきっちりと出社してしまった。罪滅ぼしにあのバカのあの失敗を許してやろう、という風に。)
とはいえ、我々の世界は競争というものに晒されているという条件がある。みんなで一斉に、自分にも他人にも甘い社会にしましょうと言って、それを実行することが仮に出来たとしても、その隙をついて、どこかの集団が自分にも他人にも厳しい路線で行ったとすると、結局その抜け駆けした集団が競争で勝ってしまい、その価値観が社会を支配するから、「厳しい」路線が復活して全体化してゆくことになる、と予想することが出来る。要するに、今の社会がいろいろ厳し過ぎるのは、「厳しい」路線の社会が過去において常に勝ちつづけてきた結果なのだとも言える。もしそうだとしたら、これは一つの条理なので変えようがないことになる。
でも、本当にそうだと言い切れるのか。もし、「厳しい」路線の社会が勝ちつづけたという過去があるから今があるのだということが事実だとしても、「厳しい」路線が勝ち続けた過去の環境と、現在の環境とでは、テクノロジーやそれによるネットワークなど、様々な条件が違ってきていると考えられるのではないか。だから、必ずしも、今後も「厳しい」路線が勝ちつづけるとは限らないのではないか。社会が、ここまでいろいろキツキツになると、自分にも他人にも「甘い」、だらしない路線の方がかえって効率的で生産的だ、ということもあり得るのではないだろうか。甘い奴こそが勝つ世界は、やってこないのだろうか。
●テクノロジーやネットワークの媒介によって、「いい加減」と「資本主義」が和解する可能性はないものだろうか、という電波妄想。