●『インターステラー』を、ブルーレイで観た。一回観ただけでは、見落したり分からなかった細部などもいろいろあるとは思うけど、まず初見の印象としては、ジャパニメーションとジャパニーズ・ホラー(というか、具体的に清水崇)が語ってきた物語を、宇宙論や物理学で論理的に裏打ちすることで統合し――強力に――補強したもの、という感じがした。ノーランがそれらの作品から影響を受けたと主張したいのではなく、あくまで、ぼくにはそれらが重なって見えた、ということ。以下、ネタバレしているので注意。
最初に出てくる、終末的でポスト・テクノロジー的な未来像は、ぼくには宮崎駿的な想像力であるように見えた。明確には描かれないが、何らかの終末的な出来事があって、その後、テクノロジーの利用を最小限にまで切り詰めた世界が訪れる。宮崎駿が描けばそれは「ラピュタ」や「ナウシカ」のような中世的な世界になり、ハリウッドが描けば、大平原にトウモロコシ畑が広がる農場の風景になる(さらに言えば、最近の「Gレコ」もまた、テクノロジーを最小限にまで制限した未来の話だった)。前の時代の遺物(テクノロジーの産物)である軍用ドローンを捕獲して高性能の太陽光パネルを手に入れる場面を観て、このような場面が過去にアニメで一体何回描かれただろうと思い、そしてそのルーツにあるのは、おそらく、「ナウシカ」や「コナン」ではないかと思った。というか、あの軍用ドローンはまるでラピュタから飛んできたかのようだった(デザイン的にも)。
(ちょっとボロい感じの宇宙船とか、地味なジェット噴射の描写とかも宮崎テイストではないか、というのは無理があるか…。)
ただ、日本のアニメと明確に違うとろは、ここで父と娘(さらに息子)との関係が非常にうまく描かれていることと、父を演じるマシュー・マコノヒーがすばらしいという点だろうと思う。存念ながら、こういうキャラクターがアニメに登場することはまずないと思う。宮崎駿だったら、ドローンを捕獲するのは、少女であるか、少年であろう。
そして、未知の「彼ら」によってつくられたワームホールを使って他の銀河まで旅するということで思い出したが「機動戦艦ナデシコ」だ。「ナデシコ」では、ワームホールのネットワークは、火星で発見された超古代文明によってつくられたもので、超古代文明のテクノロジーを巡って、地球と、地球からの棄民たちの住む木星との戦争が物語られている。だから、他の銀河というスケールではないのだが、しかしワームホールであるだから、そこには様々な物理学ネタが仕込まれていた。「ナデシコ」はパロディ的なコメディといってよい作品なのだけど、そこに仕込まれた物理学的なネタの分厚さは、『インターステラー』に通じるものがあると思う。
(九十年代の作品なので、最新の理論というわけにはいかないとしても。)
それと、宇宙を旅している主人公たちと地球との時間が(相対論によって)どんどんズレてゆく一連のエピソードは、まず、「トップをねらえ!」や「ほしのこえ」を思い出し、次に「呪怨」のような清水崇のホラーを思いだした。
特に「トップを…」は、『インターステラー』の下敷きになっているのではないか(妄想です)と思えるくらい、物語の基本の形が似ていると思う。物語の終盤では「この銀河」の外に出ているので、スケール感も近い。「トップ」では、主人公と地球の時間がズレてゆき、各登場人物間の時間のズレも、ズレてゆく(地球に残された者はただ絶滅を待っているだけという状況も似ている)。そして、ほとんど成功する見込みのない、しかし人類を救う唯一の作戦のなかで、そのズレが極限にまで拡大してゆく。そしてラストでは、極大にズレた時間のなかで、ある別の「繋がり」が垣間見えたところで終る(人類を救った主人公は「未来」に降臨する)。時間のズレがあり、別の繋がりがある、というこの流れは似ているように思う。
『インターステラ―』において「繋がり」の部分の造形は、ジャパニメーションからジャパニーズ・ホラーの技法へとシフトしていると思う。
清水崇の劇場版「呪怨」に、中年男性の刑事が、呪いの元となっている家を焼いてしまおうとそこに忍び込んだ時に、そこで、(時間を超えて)高校生になった自分の娘の未来の姿をみるシーンがあった(つまり、将来の娘もまた、この家の呪いに捕われるということだ)。ここで刑事の声は娘には届かない。この時、「呪いの家」を媒介として、繋がらないもの同士(今の自分と未来の娘)が繋がってしまうのと同時に、その娘に対して「わたし」は何もできないことが明らかになる(自分が今、何をしようとも、未来の娘も「この家」に囚われてしまう)。
清水崇は繰り返し、本来独立して別々にあるはずの異なる系列が、何かの拍子でふと触れ合ってしまう瞬間を形にする。それは、奇跡的に触れ合うことでもあるが、触れ合うことによってその系列が「合流できない」ことを思い知ることでもある。それは例えば、現在という時制にいる自分と、未来にいる自分ということでもあり、あるいは、今ここにいる自分と、今ではあるがここにはいない(別の世界、パラレルワールドや悪夢のなかにいる)自分ということでもあって、そのときいつも時間と空間が問題となる。
「インター…」の父と娘の関係は、終始、このような形で描かれているように思う。つまり、ホラーの書法で(それを物理学で補強して)描かれている。幽霊を見る娘とそれに取り合わない父の分離があり、この二人の溝が埋まって触れ合う時、その触れ合いによってこそ、決定的な別れ(宇宙への出発)が訪れる。地球に居て時間が進む娘と宇宙で若いままの父という分離があり、それがブラックホール(というか、五次元時空と重力)の媒介により再会が叶う時、そこでまた「時間」が二人に決定的な分離を強いる。そしてそもそも、最大のクライマックスといえる、五次元時空の媒介による父と娘の「非接触接触」の場面などは、まさしくホラーの手法というべきもので組み立てられているように見える。この映画では重力=霊でもあった。
●ということつまり、(互いに決して重なることなく系を分離させる)「時間」と、(あらゆるブレーンを貫いて作用する)「重力」との相克、という話なのか。重力(愛)が様々な系を繋ぎ、貫くとしても、「時間」がそれらを分離する。あるいはその逆。やはり、清水崇のホラーの科学・物理版という感じがする。
●この物語は、結局、堂々巡りの解決を迎える。人類は「彼ら」によって救われた。しかし、「彼ら」とは「我々(未来の遥かに進化した人類)」だった。だが、そもそも、現時点で人類が「彼ら」に救われなければ、人類は絶滅していたのだから「彼ら(=我々)」はあり得ない。将来お金持ちになる自分に、破産しそうな今の自分が借金しているみたいなことになっている。
(これは、四次元時空ではなく五次元時空ならば――あるいはマルチバースとかを考えるなら――矛盾にならないのだろうか?)
これは、「ナデシコ」や「ナディア」の(そして「エヴァ」の元々の設定もまた)物語の根拠が「超古代文明」だったことの裏返しで、「超未来文明」が根拠となっていると言えるのではないか。あるいは、過去の呪いではなく、未来からの(ポジティブな)呪いのおかげ、とも言える。
(ブラックホールの内部で得られた量子情報によって――それを娘に伝えることで――人類が救われた、ということなのだと思うけど、なぜそれによって救われるのか、その情報が何故ブラックホール内にあるのかという、そこらへんの理屈はぼくにはよく分かっていない。あと、そのことと、博士が研究していた重力理論の話とが具体的にどう絡むのかが、よく分かっていない。リサ・ランドールの本などに出てくるブレーンワールドと関係があるはずなのだが、あるとしたら、どういう関係があるのか。おそらく、設定としてはちゃんと整合性があるのだろうけど、映画を観ただけで分かるようには、そこの説明はされない。でも、そこがないと、密室トリックの解明なしで犯人を言い当てて、いや、作中では明示していないけど設定ではちゃんと筋は通ってます、と言っているみたいなことにならないだろうか。もっと細かく見れば示唆されているのかもしれないが。
娘との対話が、本を落とすこと――重力――によってなされることを考えても、ブレーンにとらわれない重力は、この作品の重要な主題であるはずだけど、だとしたら、そこはもうちょっと分かるように大筋だけでも示してほしいとも思った。
いやでも、現在では、映画館ではただハラハラドキドキしたり感動すればよくて、それ以上のことは設定資料まで調べてようやく理解できる、みたいな、そのような作品経験もアリなのか。ゴダールとかも、そうだと言えばそうだし。)
(その点で、ぼくは作品経験至上主義なのかも。)
●『インセブション』の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20141210