●それが夢だとは分かっていた。高校の修学旅行という設定で、実際に(現実で)何度も行ったことのある美術館を訪れていた。建物がどうなっているかも分かっていたし、作品の配置などもだいたいは分かっていた。その美術館は、大阪と広島のちょうど真ん中あたりの土地にあり、ある特定の作品が目当てで何度も訪れていたのだった。そうか、「ここ」に来ているという設定の夢なのか、と、夢のなかで思った。
しかし、その地名と、目当てとしていた作品、作家がどうしても(夢のなかで)思いだせない。
鉄道の駅は海沿いにあり、そこから、かなり切り立った斜面を、高いところまで歩いて登っていかないといけない。その具体的な道順や、途中の風景、過去に何度か訪れたときの出来事(例えば、そこに至るまでの電車のなかで「遠いなあ」と思ったことや、坂道を登る時に下ってくる車と接触しそうになったことなど)、そういう具体的なことは憶えているのに、駅名、地名と、目的の作品がどうしても思い出せない。
夢のなかでは、夢だと自覚している高校生であるが、思い出せないと悩んでいるのは現在の(現実の)自分の記憶だということになる。
そうなると、現実の自分は本当に「ここ」に来たことがあるのかという疑いが生じてくる。「かつてここに何度も来たことがある」という「記憶」(というより、その記憶に対する「確信」と言うべきか)そのものが、夢の一部に過ぎないのではないかという疑いが浮上する。こんな美術館に来たことなど一度もなくて(というか、そもそもこんな美術館は現実には存在しなくて)、「この美術館」が夢のなかで(恣意的に)創造されている時、まさにそれと同時に、「ここに(現実世界で)何度も訪れたことがある」という記憶もねつ造され、「その記憶が確かなものであるはずだ」という確信までもが、今、この時につくられているのではないだろうか。
そう思ったとたん、とても強い不安に襲われる。この不安は、記憶のねつ造に対する不安というより、記憶のタグづけの不可能性に対する不安だ。ある記憶が「偽」であり、ある記憶が「真」であるというメタ的な認識に対する疑いということになる。個別の経験の手触りや生々しさ、確からしさ(感覚の精度)は、「これは、夢/現実である」というメタ認識には何の保証にもならない。しかし、それ(根拠のない「確信」)以外に、記憶の確かさに関する別の指標があるわけではない。『インセプション』の「コマ」のようなものは現実には存在しない。
それはそのまま、夢のなかにいて「今、わたしは夢を見ている」と思っている自分の認識の無根拠さへの不安につながっている。「今、わたしは夢を見ている」と思っている、その「わたし」こそが、その夢によって生成されている。その「わたし」には何の根拠もない。
そう思ったとたん、夢はその様子を変化させた。「今、わたしは夢を見ている」という確信は、「わたしは、この夢に永遠に閉じこめられている」という確信に変化し、その「確信」からはどのようにしても逃れられず(根拠のない確信からは逃れる術がない)、それがとてつもない恐怖となる。
しかし、幸いなことに、「わたし」はアラーム音で目覚めることができた。この日記を書いている今までのところ、「目覚めた」というメタ認識にほころびは見られない。だが、だとしても、「わたし」が目覚めているというメタ認識には(目覚めていると思っている「わたし」には)、なにも、どこにも根拠がないことは変わらない。
(最後の一文は、修辞的な「オチ」ではなく、ぼくにとっては繰り返し回帰してくるリアルな恐怖だ。)