●たまたま、ツイッタ―での仲山ひふみによる「世界制作のプロトタイプ」展へのコメントと、それを受けたキュレーター上妻世海との応答をみかけ、それがとても興味深いものだったので、何年ぶりかで「美術手帖」を買った(まだ読んでいない)。仲山発言は、現状の「見取り図」としてもとても有用だと思われたのでメモとして引用させていただく。
(「世界制作のプロトタイプ」は観ていない。タイトルがあまりにベタに「そのまんま」なので反感が生じてしまったからなのだが、そのような予断――下に引用する仲山発言はそのような予断に対する批判でもある――に惑わされずにステイトメントくらいは読んでみれば、観ることができたかもしれない。反省します。)
●以下、引用(https://twitter.com/sensualempire より)。@skkzmが上妻世海の発言。
《たとえば今、ArtReview誌では「現代アートにおける"新しさ"へのオブセッション」が連続特集されている。そこではむしろ「新しさ」の価値はアイロニカルに取り扱われているけれども、このアイロニー自体、「新しさ」を諦め切れていないことからくるものだということは明らかだったりする。》
《「プロトタイプ」や「世界制作」、また「創発」や「共同性」といった概念が「新しさ」への期待を担うものとして用いられているのは事実だと思うけれど、それを根拠にこれらの概念のポテンシャルを測ることを早々に放棄してしまうのはまずいだろう。思考のゲームに乗るぐらいの余裕は常に持つべきだ。》
《逆にその思考のゲームに乗ってみることで初めて「では今回の展示において創発はいかなる新しい特性をもたらしたか、またその特性はどの作家に対して特に新しいものであったか」などと問うことも可能になるのだし、上妻さんの考える「プロジェクトとしての展示」の甘い点も批判できるようになるのだ。》
《アートの制作をプロジェクトとして、一つの目的を達成するためのその時々のアウトプットとして見るというのは、かなりクールでドライな見方ではあるが、なぜそれをアートでやらなければならないのかとか、その割り切り方はアートワールドという「支持体」にそぐわないのではないかという疑問は、ある。》
《「モノ」の絶えず二重化する力、「アレゴリー的衝動」(オーウェン)、その美学的なポテンシャルに賭けていきたいというのが「モダニズムのハードコア」の結論だったわけだが、今はそうも言ってられなくなり、もっと全面的に倫理的要請に従う「社会的転回」(ビショップ)の時代になってしまった。》
《ところが、社会科学とか政治哲学の人にとっては自明のことだろうけど、絶えず自らのプログラム(道徳)の抜本的な見直しを繰り返すこと以外に倫理的であるための方法などないのだから、「社会的転回」自体の自己批判こそ実は最も「社会的」だと言っても間違いではない。そこでアートはジレンマに陥る。》
《デューリングの「プロトタイプ」にしてもハーマンの「リテラルネスではないものとしてのシアトリカリティ」にしても、こういうアートのジレンマを見かねて「とりあえずモノを作るっていう基本に戻りなよ」と外からアドバイスするつもりで提示された概念というところがある。「制作」の復権ってわけだ。》
ランシエールですら俺は美学でも政治学でもなく「一般詩学」(言うまでもないがポエティークの語源は「制作」すなわちポイエーシスにある)をやっているんだなんて言うのだから。それはそうと、公共性に対する共同性の差異もやはり何かを作ったりすること(co-operation)にあるのだった。》
《つまり今日のアートと社会の問題の核心には、こうした「制作」の場所の喪失とその再獲得を阻む幾多の困難ということが疑い難く存在しているのだ。まるで70年代の美術批評のテーマに逆戻りしたかのような感じを与えるかもしれなあが、実際問題の本丸は(ネットの登場と冷戦終結を除き)動いていない。》
《70年代の問題がまだ片付いていないと言える領域は他にもある。まず中東およびイスラームの問題、そしてエネルギーと地球環境全般の問題。エコノミーとエコロジー。これらはある意味で全ての「プロジェクト」を包含する「メタプロジェクト」と言えそうだ。アートはそれとどう関わるか。》
《RT @skkzm: 関係性の美学は非常に意識しています。僕は集団と生成の美学という論文で、リレーショナルアートについて論じてますし、その延長線上にこのコンセプトがあります。具体的には友愛と敵対という二項対立ではなく、友愛と敵対と無関心がプロセスの中で、》
《RT @skkzm: 変化しながら、作品が創発されるという集団と生成の美学の結論から出発しています。僕はそこにアクセル・ホネットの理論を接ぎ木して、作品ではなく、目的の創発であり、それが目的そのものを産み、目的によってドライブされた物語が生まれ。事後的に共同性が構築されるのだ。という理論です。》
《RT @skkzm: 創発の先に見いだされる共同性とは何か。この問いは僕にとって非常にクリティカルです。それがどのようなものなのか(共同性の形質)については考えたことがなく、共同性の強度(目的なき共同性と目的の連続的な創発が産み出す物語の中で、事後的に構築される共同性)の差異にのみ考えていました。》
《ちなみにこの部分から、僕は不意打ちのような刺激を受けました。QT @skkzm: 僕はそこにアクセル・ホネットの理論を接ぎ木して、作品ではなく、目的の創発であり、それが目的そのものを産み、目的によってドライブされた物語が生まれ。事後的に共同性が構築されるのだ。という理論です。》
《目的のセリーの生成、そのオートポイエーシス。大雑把に言えば「目的を作ることこそ目的である、そしてその新しい目的もさらに新しい目的のためにある」という話だ。これは眩暈を起こさせる。実際には「いい展示にする」などの具体的な目的がその都度ありはするだろう。でも究極的な目的は謎なのだ。》
●おそらく、今、「制作」というものをどのようなレベルで考え、それをどのようにして組織すればいいのかがよく分からなくなっている。というか、そもそも「制作」という言葉は定義できないマジックワードのようなもので、それが何を指しているのか、制作している時、人は何をしているのかはよく分からない(勿論、具体的なプロセスはあるし、示せるけど)。それこそ、岡粼乾二郎が言うように(「建築は演算によってのみ出現する」)、事後的に、ネガティブにしか捉えられない「出来事」や「事件」を、事前に、ポジティブに語り得るかのように対象化するという「欺瞞」こそが、制作(という言葉を使うこと)を可能にしているのかもしれない(この欺瞞が必ずしも悪いこととは思わないけど)。
それに対し、制作を「目的の創発」のための手段というレベルで捉え、そこに結果としてあらわれる(であろう)共同性を目指す、という形を明確にすることで、「制作」とは何かということを外からの枠づけて分かり易くしてみるのは、ひとつの「あり得る設定」として魅力的だと思った。公共性に対して、(事後的なものとしての)共同性をつくるものとしてとして制作を絡める、と。
(それが具体的に作品にどうあらわれているのかについては、展覧会を観ていないので何ともいえないが。)
ある目的が新たな目的を生む目的産出のオートポイエーシス。とはいえ、オートポイエーシスというのはひたすら自己を維持するために自己を更新するだけの制御不能な機構なわけで(たとえシステムが敵対性や無関心を内包していようとも、システム全体としてはそれは「一つ」であり、自己産出しかしない、例えば「金融システム」はそれに関わる諸エージェントの思惑に関わらず、ただ「金融システム」自身を維持するために働き、それに参加する多数のエージェントたち≒共同性を再産出しつづける、しかしシステムがおのれ自身を問うことは出来ない)、それに対してどのような(内在的な)批判的介入があり得るのか――あるいは、別になくてもいいのか――ということは問題になってくると思う。
(オートポイエーシスに自己言及・自己批判が可能なのか、という問題が「内部観測」であり「心身問題」なのではないか。)