●下北沢のB&Bに、清水高志さんと西川アサキさんのイベントを聞きにゆく。清水さんと西川さんが仲がいいことは知っているけど、でももう一方で、西川さんが、清水さんが強力に推している最近の現代思想の潮流(思弁的実在論とかオブジェクト思考哲学とか)にはあまり興味をもっていないことも知っているので、どんな話の展開になるのだろうかと思っていた。
(トークがはじまる前、おそらく清水さんが持ってきたのだろうと思われる「現代思想」の新しい唯物論の特集をパラパラみている時も、西川さんはきわめて冷淡な感じだった。)
それはつまり、こういうイベントがなければ西川さんは『ポストメディア人類学に向けて』(ピエール・レヴィ)という本を読まなかっただろうということで、清水さんの企画の意図としては、イベントを理由に読ませて、そういう西川さんからどんな反応が出るのかをみる、という狙いもあったのではないか。
トークは、西川さんが、この本を読んで、面白いと思った点、ダメだと思った点を挙げていって、それに清水さんがコメントするという感じで進んだ。
例えば、レヴィの示す四つの空間(大地、領土、商品、智慧)のうち、多くの人は三つ目(大地、領土、商品)までは考えるけど、そこで終ってしまう。その上にもう一つあるというのが面白い。でも、「智慧の空間」の具体例がほとんど描かれていない。そこで具体例を考えてみた、と。
それが、「デモンズソウル」のプレイ動画を観ている「ゲーマーのわたし」、ということになる。
(この動画についての説明は、12年12月16日と、今年の4月30日の日記に書いてます。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20121216
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150430)
ここで、ニコニコ動画に投稿されたゲームのプレイ動画を媒介にして、「ゲーム動画のプレイヤー(フジマロ)」と、「動画を観ている(ゲーム経験者である)わたし」と、わたし以外の「他の多くの(ゲーム経験者である)動画視聴者(別のわたし)」(の経験)はすべて繋がっていて、「わたし」はその連続性(連続的な分布?)のなかで「わたしが何処にいるのかは分からない」と。
ネットワークと言う場合は、離れた結節点が線で繋がっているイメージであるけど(ネットワークは「商品の空間」のものであり、それについては既に多くの人が思考している)、この場合、すべての「わたし」が(動画-動画によって媒介される経験、として)連続していて、重ね合されている。これを西川さんは含意(implication)表現していた。
(関係ないけど、ぼくはゲームを知らないでプレイ動画を観ているのだけど、この動画のプレイヤー=ナレーターであるフジマロは、自分が操作するキャラクターが敵から切り付けられる度に、自分の体が切られたように「痛い」「痛て」と声を出すのがとても印象的だけど、これはゲーマーとしては一般的なことなのだろうか。)
それに繋がる話として、清水さんは今西進化論を挙げていた。
ハイエクと今西の対談というのがあって、そこでハイエクは、複数のルール(をもつ集団)があった時、集団間で競争が起こり、良いルールをもった集団が生き残るということを言うのだけど、今西は、競争ということは考えなくていいと言う、と。
今西は、動物たちにも文化と言い得るルールがあり、そのルールが媒介となって集団がつくられていくとする。その時、ルールの方が能動的に変化することによって集団が変化するということが起り、それによって例えば、ある特定のサルの集団が「一斉に立つ」ということが起る、と(ある一匹のサルが突然ふらふら立ち上がって、そのサルが他のサルよりよく生き残る、ということはないのではないか)、と。で、あるサルの集団が立った時、立たなかったサルとの間に競争があるのではなく、立ったサルと立たなかったサルとの間には「ルールの分岐=集団の分岐」があるのであり、双方は分かれて、棲み分けてゆくのだ、と。
ここで、「ルール」や「プレイ動画」が、「智慧の空間」的な意味での集団を形成し、その(ネットワークではなく)連続性をつくりだし、分岐をうながしもする媒介となる、ということだろう。プレイ動画を経験する、多数の匿名の「わたし」たちや、ルールを共有し、ある日ふと一斉に立ち上がる「わたし(サル)」たちにおいて、それぞれの「わたし(の経験)」は連続性のなかにいて、「このわたし」はそのなかの何処にいるのか分からない。
●ぼくにとって、このトークでもっとも興味をひかれた話が、この、ネットワークとは別の概念としての「連続性」の話で、ネットワーク的、あるいは、確率・統計的なものである「商品の空間」の一個上にある「智慧の空間」を、このような連続性から捉えられるのではないか、という点だった。
●で、この、西川さんの話と清水さんの話は、確かに繋がっているようでもあり、どこか根本的に違っているようでもある。清水さんの話と西川さんの話が、どの程度繋がっていて、どのような点が違っているのかということについてを、「連続性」という概念をもっと突っ込んで考えてゆくなかで、考えていく必要があると思った。これは自分の問題。
●『ポストメディア人類学に向けて』(ピエール・レヴィ)は水声社から出ている本で、イベントにも水声社の編集者が来ていたのだけど、その話によると、秋には、人類学叢書の第一弾として、ストラザーンとヴィヴェイロスの翻訳が出るという。さらに、七月くらいから、小島信夫長編集成として、一年くらいの間に十冊の長編を出すという。水声社すごい。
(これで『菅野満子の手紙』とかも読めるようになる!)