●お知らせ。6月19日(金)付けの、東京新聞夕刊に、ギャラリーαМでやっている村上華子展のレビューが掲載される予定です。
●「ユーフォニアム」は京アニ史上でも最強のクオリティなのではないか。監督が石原立也で、キャラクターデザイン・総作画監督池田晶子。このコンビは「ハルヒ」以来なのか。で、そこにシリーズ演出、山田尚子という存在が入っているのが大きいような気がする。京アニはもともと、作画はすごいけど「物語を語る」のがあまり上手ではない感じなのだけど、なんで急にこんなことになったのかと考えると思い出すのが『たまこラブストーリー』で、あの作品をつくった人の力があればこれも可能なのかと思う。シリーズ演出というのが、きっと上手い配置なのだろう。
勿論、脚本も上手くできているし、原作も良いのだろう。
●ただ「上手い」というのは、それが定型パターンだということでもある。
例えばこの物語はあからさまなガール・ミーツ・ガールの話であり、それは冒頭で既に二人が決定的な出会いをしてしまっていることから明らかだ。冒頭の場面で、高坂の悔し涙を見ているのは黄前だけだ。そして黄前はもちまえの性格の悪さから、全国なんて本気で狙ってたの?、みたいなことを平気で言ってしまう。ここで互いに相手の心にはっきり爪痕を残してしまっている。良くも悪くも「特別な存在」になっている。さらに、同じ回でもう一度出会い直しをしてしまっているのだから、もうこれは運命であり(というか、「運命である」という「表現」であり)、この二人の関係がやばいところまで進展しないわけはない(「現実」ではどうか知らないが、物語の文法から言えば)。
他にも例えば、オーディションの結果を多数決で決めると言っておきながら、実は問題は本人の「納得」だった、という風に、立てられた問題を、別の仕方で解決する(最初に示されたフレームを超える別のフレームの提示によって問題解決とする)というのも、物語を面白くする展開のパターンとしてはよくあるとも言える(ミステリだったら、ロジックでこれをやる)。
これは、「物語」を面白くするための、既に多くの人が知っているやり方の一つだ。勿論、知っていたからと言って誰でもが「上手く使える」というわけではない。「ユーフォニアム」がすごいのは、誰もが知っているベタなやり方を、誰にも真似できないほど「上手く(そして丁寧に)使っている」ところにあると言える。テクニックは、ただ単独であるとテクニックにしか見えないが、なるべく多くの「他の要素」と上手く密接に絡んでいればいるほど、テクニックではなく、深みや必然性にみえるようになる。
ただ、今までの京アニが「物語を語るのがあまり上手くなかった」としたら、このような、「既にある上手いやり方」を、なるべく使わないで、それとは別のやり方で表現を成立させられないかを探求していたという側面もあると思う。例えば、話の面白さより、圧倒的なダンスの動画でみせるとか、あえて起伏も葛藤もない世界をつくるとか、伏線とその回収、謎とその解決という展開を、物語単位ではなく、場面単位でのみ使う(大きな起伏ではなく小さな起伏の連続によって持続を支える)とか。『境界の彼方』のように、「物語」は語るのだけど、話を展開させる力を常に多方向に分散させるような(つまり「物語の面白さ」に没入させないような)つくりにするとか。山田尚子による数々のすばらしい演出も、「物語の文法」というのとは違う方向を向いていたと思われる。
しかし、「ユーフォニアム」では、思いっきり方向転換していて、しかもそれが信じられないくらい上手くいっているように見える。中途半端ではなく、徹底してやっているのがいいのだと思うが、しかしよくぞここまで思い切ってやったなあと思う。
ただこれは、ピカソキュビズムの後、新古典主義になって思い切り「ボリューム」に回帰したみたいな、単純な「物語回帰」とは違う。例えば『境界の彼方』では、あらゆる場面で「物語を進行させる力」と「物語に納まらない(物語を停滞させる)様々な別の力」とがぶつかり合っていて、一つ一つの場面や展開がすごく複雑になっていた。これは、つくるのはすごく大変だと思うけど、全体としてみると「物語に入り込めない」という感じになってしまった(ぼくはすごく好きでいいと思うのだけど、イマイチ受けなかった、と)。「ユーフォニアム」では、進行させる力と停滞させる力のぶつかり合いで複雑さをつくるのではなく、複数の物語(というか、潜在的な前物語的フレーム)を同時進行させて、その交錯とスイッチングによって複雑さをつくっているから、一つ一つみると別々である物語が、全体として「一つの物語群」としてうねるように進行していて、停滞感のようなものがなく、十分な複雑さと多様性を含みつつも、流れに入り込みやすくなっているということなのだろう。