●自我に統一性を与えるのは共同体であり、「一般化された他者」であるみたいな社会学的議論は、五十年代のラカンの、「大他者(シニフィアンの大他者)の大他者(法の大他者)」として「父」が機能する(〈父の名〉を排除すると精神病者になる)という議論と同型で、しかし、そんなものはもう成り立たない(人はみな精神病者である)というのが七十年代にラカンが到達した地点であったと『人はみな妄想する』に書かれていた。
(まったく成り立たないというわけではなく、多くの人は「父性の欺瞞」を妄想として機能させることで、なんとかやっている、と。)
ポストモダン的な相対主義は、「主義」と名のつく選択可能なイデオロギーというよりも、発見されてしまった物理的法則に近いもので、気づいてしまった以上、そこからは誰も逃れられないというようなものだと思う。大他者の大他者は存在しない。メタ言説は存在しない。様々な言語ゲームがあり得るし、それぞれの言語ゲーム内でことの真偽を問うことはできるが、諸言語ゲーム間を貫くルールはない。唯一の共通項は、それら異質な言語ゲームが共存し、それらすべてを含む場として「この世界(現実)」がある、ということだけだ。
しかし、「この世界」は、無限に多様な言語ゲームを受け入れるわけでは、どうやらないようだ。それはおそらく進化や淘汰の過程に似ている。たとえばこの地球は、カンブリア期のような生物の多様性が保たれる状態をずっと持続させることはできなかった。多様な種がそれぞれに棲み分けることが可能ならよいのだが、ある環境(この世界)が許容し得る多様性には限りがあるようなのだ。
言語ゲームの多様性が、環境(この世界)にとって許容できないところまで行った場合に、言語ゲームの間に抗争が生じざるを得なくなる。これが政治だ、と。しかし、それは本当のことなのか。言語ゲームAと言語ゲームBとが抗争できるとすれば、両者にとって土台となる第三項「メタ言語ゲーム」が必要になる。しかし、メタ言語ゲームは(「この世界そのもの」以外には)存在しないのだから、そもそも二つの言語ゲームは直接的には争うことすらできない。つまり、異なる言語ゲーム同士は、対話することも抗争することもできないはずではないか(オートポイエーシスには入力も出力もない等々)。
(だから、政治が可能になるためには、「メタ言語ゲームが存在する」という嘘を、みんなでそろって信じたふりをする、あるいは、みんなで「メタ言語ゲームの夢」をみる必要がある。それがおそらくラカンのいう共同的な妄想としての「父性の欺瞞」だろう。
欺瞞を完全に廃したら精神病者になるしかないとすれば、政治的な問いとは、どのような欺瞞が、共有可能なものとしてもっともマシであるかということになるのではないか。欺瞞というのは、事後的にしか見いだせない第三項x――あるいは正義――を、メタレベル――父=法――として先取りし、あたかも既に存在しているかのように扱うということだ。)
(あ、そうか、同一の言語ゲーム内でなら「政治」はあり得るのか。それは、人事とかポジショニングとか、そういうものだろうけど。)
(ここで、対話でも抗争でもないのもとして、各言語ゲーム間の「翻訳」は可能か、という問題がでてくる。モナドには窓はないが互いが互いを写し合っている、というような意味での「翻訳」。どのようにしても比較することが可能ではない自体性愛的トラウマのシニフィアン同士を「交換する」というような意味での「翻訳」。でもこの話は、第三項を前提としないとすれば、限りなくテレパシーに近いことになるのだが。
ここで、第三項を「メタ言語ゲーム」ではなく「技術(実践)」とすることもできる。しかしその時、「技術(実践)」という語に神秘が宿ることを排除できない。要するに「欺瞞」は排除できない。)
だから淘汰というのは、他との競争によって起こるのではなく、環境(この世界)に対する適応性において、この世界との関係において生じる。他に対しているのではなく、世界に対している。どんなに精密で高度な知能による「天気予報(シミュレーション=言語ゲーム)」も、天気予報それ自体として自律的に自己の正当性を証すことはできず、絶えず「天気(この世界)」への参照を必要とする。「この世界」との参照関係を失ったシミュレーション(言語ゲーム)は成立しつづけられなくなって消滅する。
「この世界」への参照というのは、つまり生き残ることができるかどうか、ということだ。何が滅び、何が生き残り、生き残ったものは次に何に変化してゆくのか。この世界そのものが、それを計算している計算機だといえる。しかし、おそらくあらゆる言語ゲームは、それ自体閉ざされたものとして自律したいという夢をもっている。どの言語ゲームも、「この世界」内における計算過程の一ステップでしかないことを快く思わない(あたかも言語ゲームそれ自体がクオリアをもっているかのようなこの言い方は、行き過ぎた擬人化だろうか)。あるいは、ひとつの言語ゲームは、「この世界」には還元されない、それ自体で固有の、孤立した「ひとつの世界」でもある。
ひとつの言語ゲームとしての閉じた「ひとつの世界」は、そもそもそれをなりたたせている「この世界」とどのような関係にあるのだろうか。たとえばハーマンの「代替因果について」を、そのような問いに対する(きわめてフィクション的な)一つの回答の試みの、ざっくりとしたエスキースとして読むこともできる。
(ここでは意図的に、言語ゲームと生物とを混同している。もし各言語ゲームにそれぞれのクオリアがあるとすれば、言語ゲームという「ひとつの世界」が、「この世界」という計算機の計算過程に完全に解消されるというわけではないと言える、のではないかと思うから。)