●『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン)を半分くらい(15章まで)読んだ。イーガンとは思えないくらい「普通」で驚いたのだけど、それはつまらないということではない。この小説では、現代の現実にとても近いところから、親子、コミュニティ、政治、国家、宗教(宗教そのものというより、それによってかたちづくられる伝統的習慣)に関する考察が丁寧に述べられている。要するにこれらは、人間が存在している時にまわりに切り離し難くある諸条件ということになると思う。
長めのプロローグと言える第一部は、イランにおける(革命と言えるくらいの)大きな政治的動乱を最前線で取材するオーストラリア人の記者と、十年近く前に亡命し、現在進行中の革命になにも関与できないことをはがゆく感じている、マサチューセッツ工科大学で研究職にあるイラン出身の女性という二つの視点から語られる、エンターテイメントとしてよくできた、普通に面白い小説という感じになっている。革命の真っただ中に居る外国人と、遠くにいる当事者という対比は、物語を面白くするために導入された「よくある手」であって、重要なのは、外国人の目から見た異国の「伝統的な習慣」という方にあることが第二部に入って分かってくる。オーストラリア人の記者は、革命後、イランの女性と結婚してイランに留まる。亡命した研究者の女性も、革命後の祖国に何か貢献したいという思いから帰国する。
オーストラリア人の元記者は、革命の取材を通じてイランの民衆に対する尊敬を感じているし、強い絆で結ばれた信頼できるイランの友人たちもいる。しかしその一方で彼は、自分の息子をイランの伝統的な習慣や価値観のなかで育てたくはないと感じている(あからさまなジェンダーバイアスがある、などの理由で)。彼と結婚した女性は、もともとイランの伝統的な価値観と相容れず、十代で既に親から勘当されているような人物で、テヘランで唯一のガールズゴスメタルバンドをやっていたというくらいの人なので、当初、それは大した問題ではなかった。息子は、イランにいてもそのような両親に育てられるのだから。しかし、彼女が事故死し、彼自身の健康も危うくなったところで、その点が問題になってくる。小説は、このような微妙な問題をとても繊細に描き出している。
(元記者と結婚した女性は、伝統的習慣とは相容れないとしても、自国の民主化運動には深く関わっていたのだし、国や習慣の一切を捨てるというわけではない。このあたりの微妙なニュアンス。亡命した女性科学者にしても、国に父を死刑にされ、親戚たち――コミュニティ――にひどい扱いを受けて亡命を余儀なくされ、しかもアメリカではかなりよい待遇をうけながらも、祖国が民主化されれば国のためになりたいと帰国するのだった。それは、イランに馴染み、移住し、イランの人々に敬意をもちながらも、その伝統的習慣に受け入れがたいと感じる部分があることを消せない、オーストラリア人の元記者と逆向きに相似的だ。)
●そこで出てくるのがサイドローディングという技術だ。
女性研究者ナシムは、もともとアメリカでヒト・コネクトーム・プロジェクトにかかわっていた情報系の科学者だ。彼女は例えば、千羽の錦花鳥の脳をスキャンして、それら、一羽としてまったく同じものではない固有の脳から、「一般的な錦花鳥の脳」のシミュレーションを創り出すという研究をしていた。勿論それは最終的には、「一般的な人の脳」のシミュレーションをつくることが目指されていた。彼女は帰国によりその研究から離脱するが、その(ずっと)後、別の事情によって要請され、図らずも過去の研究を引き継いで一定の成果を出すところまでゆく。
そこに、キャブランという富豪からサイドローディングという技術の存在を告げられる。それは、活動中の脳を外側から(非侵入的に)スキャンして、特定の「ある脳」をニューラルネットワークに模倣させるという技術だ。
《サイドローディングでは、そのブラックボックスを分解はできないまでも、内部を覗くことができる。ATLUM(自動切片回収機)で脳を細く切り裂いたときのような解像度は得られないが、生きている脳をあらゆる種類の刺激にさらして――言葉、画像、音、味、におい――それが頭蓋骨の内側でどんな風に跳ねまわるかを見られる、という利点を得られる。外見的なふるまいがほとんど生じなくてもなんの問題もない。石を投げいれるたびに波のように広がる内部での変化のパターンを観察できるんだから。》
一般化された仮想脳と、スキャンされた固有脳の機能を合わせるとどうなるか。例えば、ある迷路を解くように訓練されたラットの脳をスキャンして、それをもとに一般化された「仮想ラット脳」を修正すると、その仮想ラットが迷路を解くことができるようになる。一般化された脳のモデルに、ある固有の脳の特性というか、癖のようなものを模倣させることができる。ある固有の人物の脳をスキャンしてその作動を模倣したニューラルネットワークをもとに、「一般的な人の脳」のモデルを修正してやれば、ざっくりとした「その人の脳」のシミュレーションが得られるということになる。それは、たんに人間らしく振る舞うようにプログラミングされただけのプログラムより、幾分かは人間臭い、固有性の感じられる振る舞いをする。
この技術はいかにも中途半端なものだ。「わたしの完璧なコピー」ではなく、「わたしっぽい振る舞いのできる何か」が生まれるにすぎない。しかしこの中途半端さこそが作品の主題になっている。それは「魂」をもつとは言えないが、「魂の萌芽のようなもの」を持っていないとは断言できない、という程度のものだということが重要になる。「わたしっぽい振る舞い(幾分か付加される人間臭さ)」としか言えない微妙な何かこそ、たとえば文化において受け継がれるものであり、異なる「伝統文化」において受け入れ難い核となるものに近いかもしれない。
●まだ話はそこまで行っていないのだけど、おそらく元記者の男が、自分の死後も、自分の脳のシミュレーションを使って息子を教育したいと願う、というような話になってゆくのだろうと予想される。それは、イランの伝統文化を(最後の最後のところで)どうしても受け入れきれない、西欧の文化のなかで育った脳を、自分の息子にも託したいという思いだ。
(これは、「わたし自身の不死」を願うことと、どの程度異なるのか。)
この小説はここまで、テクノロジー主導の話ではなく、あくまで、人間が生きている環境(家族、コミュニティ、政治、伝統的習慣)の方を主眼として、非常にデリケートな配慮とともに進んできているのだが、それは同時に、これらの問題に対するテクノロジーの影響はもはや避けられないということの描出でもある。いずれにしろこの小説は、「面白いアイデア一発」でスッキリと終るみたいなことにはならないだろう。