●深夜アニメ。荒廃し切った、ゾンビの歩き回る学校で、日常系ゆるふわアニメのような生活を維持しようとする『がっこうぐらし!』の主人公と、パイズリ+フェラ画像を、女の子がキノコをおいしそうに食べている画像として認識する『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』の生徒会長は、どこか似ている。
人は、見たくないものは徹底して見ない。われわれは、自分が「がっこう…」の主人公とは違うと言い切ることはできない。人が何かを受け入れたくないと思っている時、それを「受け入れたくないと思っている」ということも受け入れない。「それ」を「受け入れたくないと思っている」という事実が意識空間から排除されている。無意識によって歪みを加えられた意識空間で直線を引いても、空間そのものが歪んでいるので直線も歪む。そして、意識空間が歪んでいない人など存在しない。
「下セカ」の生徒会長は、学校から卑猥なものを排除しようとする強権的な管理者である。しかし彼女は、自分の意識空間のなかに卑猥なものを排除する機構を完璧に作動させているが故に、「パイズリ+フェラ画像」を認識できず(あるいは、認識していたとしてもそれを認めず)、それを「女の子がキノコを食べている」さわやかな画像として気に入り(本当は卑猥だからこそ気に入ったのかもしれないが、そのことを意識は知らない)、わざわざ生徒会室に掲示するという行為にでることになる。排除の機構の完璧な作動が、逆説的に排除物の侵入を促すことになる。
「がっこう…」の主人公も「下セカ」の生徒会長も、彼女らがたった一人で(あるいは同じような人たちだけと共に)存在するのであれば、彼女らは「そのような世界」に住んでいるのであり、さしあたっては何の問題もない。しかし、彼女らの傍らには、世界を別様にみている他人がいる。このことが物語を発動させる。
(「がっこう…」では観客は、ひとまずは主人公の側から世界を見るが、「下セカ」では生徒会長に対する他者の側に観客がいる。どちらにしろ、双方のギャップが作品の面白さの大きな部分を占めている。
卑猥なものが校内に持ち込まれることを許してはならないという演説をする生徒会長の背後に、パイズリ+フェラ画像があることの滑稽さ、そしてその画像を持ち込み、掲示までしたのが他ならぬ生徒会長であるということのギャップを、面白がることができるのは「それを知っている」観客と主人公たちだ。)
「下セカ」には、「知っている者」と「知らない者」と「知りつつある者」が存在する。ここで「知らない者」とはたんに無知(情報が足りない)なのではなく、知りつつあるという事実を意識のなかから完璧に排除できている者ということになる。つまり知ることを強く拒否している(知ることを拒否させている権力を強く内面化している)。「がっこう…」の主人公が、見えているはずのものを完全に見えていないことにすることができるのと同様に、「下セカ」の生徒会長は、あるはずの性欲を完全にないことにできる。
だが、大方の生徒たちは知りつつある者であり、それは(外的な強制によって)知ることを一応拒否してはいるが、その拒否は決して強いものではないということだ(環境によって管理されてはいるが、権力は十分には内面化されていない)。大多数の半端な「知りつつある者」をめぐって、「知っている者」と「知らない(ままでいようとする)者」とが自分の陣営に引き込もうと勢力争いをしているという構図だ。
通常は、知っている者の方が知らない者よりも優位にある。だが「下セカ」の世界では、知らない者の側に権力があり、知っている者は犯罪者である。権力者は本当は知っている(でなければ管理できない)が、人々に知らないままでいることを強制する。しかし、権力に忠実な者は、忠実であるがゆえに知らないままであり、権力的に優位だが知的に劣位という位置に着くことになる。「取り締まるべきもの」は禁じられたものなので、生徒会長は、自分が「取り締まるべきもの」について知ることを禁じられている。しかし、「がっこう…」の主人公が「何」を見なかったことにすればよいかを(少なくとも無意識的には)よく知っているからこそ、正確に「それ」を見ないことができる(「窓があいている」ことは見ても、そこの「ガラスが割れている」ことは見ない、など)のと同様、「下セカ」の生徒会長も、「何」を知るべきでないかということを十分によく知っているはずだろう。知らないということは無知ではなく、十分に知っていながら知っていることを認めないということだ。だからこそ生徒会長(の無意識)は、他の画像ではなく正確に「卑猥な画像」を選択して生徒会室に持ち込む(それについて何も知らないのだということを主張するため)。
「下セカ」の主人公は、知っている者であるが、知らない生徒会長に、そして知らない者たちの世界にあこがれを持っている。『がっこうぐらし』の少女たちは、主人公が「見えていない(別の世界を見ている)」ことを知りつつ、彼女に合わせ、その世界を尊重しようとする。この二重性が、「知っている」側の者たちを苦しめている。あるいは、楽しませている。「下セカ」の主人公は、あこがれの生徒会長を裏切っていることに苦悩するが、その苦悩はまさに背徳という快楽でもある。観客もまた同様の位置にいて、卑猥が禁じられた世界に卑猥な物を持ち込むという侵犯の快楽(権力への抵抗)よりもむしろ、あこがれの存在を裏切るという背徳こそが、今のところはこの作品の快楽を支えているように思えた。しかし生徒会長は、本当に「知らない」わけではないはずだ。
だが、ここまでは俗流精神分析にすぎないとも言える。繰り返すが、重要なのは、誰でもが、自分が「知らない者(知っていながら知っていることを認めない者)」ではない、と、言い切ることは出来ないということだ。「知っている者」の側から安定して世界をみることはできない。自分が「割れたガラス」を見ていなかった(見ていることを認めていなかった)ことを知るのは、割れているガラスが見えるようになった後であり、その前はちゃんと「現実を見ている」と思っているし、その現実はそれとして辻褄があっている。「がっこう…」一話のラストの衝撃は、まさにそのこと(視聴者こそが見えていなかった)を示している。しかしそれと同時に、何かちょっと変だなあという予兆を、事前に持ってもいる。そうでなければどんでん返しはただの詐欺としか思えないだろう。そして原理的には、このようなどんでん返しは何度でも起こり得る。われわれにとって世界の底はリアルに安定していなくて、常に結論の出ない(もしかすると…という)予兆のなかにいる。だからこそ、これらの作品はリアルなのだと思う。
●『ガッチャマンクラウズ インサイト』は、今のところ不穏な要素ばかりが目立ち、今後の展開は陰惨なものになるとしか想像できない。観るのが怖い気もするけど、やるんだったら徹底してやって欲しいと思う。