●下の写真は、制作中の作品のエスキース、というか、基本となるパーツのようなもの。
人体をモチーフにした作品をつくりたい、というか、人体を描きたい、と思ってクロッキー教室に通いはじめたのが2007年のことだから、もう八年も前のことになる。その思いは断続的に持続しているのだけど、なかなか形にならないまま今に至る。
人体には、明らかに求心性、中枢性があり、そして定まった(動かせない)物としての構造がある。しかし、ある空間、ある環境のなかで動くことで、内観的には、ある程度の流動性をもって形を変化させてゆく。もちろんそれは自由にではなく、空間のありよう、人体の構造、そして人体を自動制御している自分には計り知れない何かの力、というかアルゴリズム、さらに、社会的、個人的に習慣として刻まれてきたもの、(ほんの少しだけ)自分自身の体の動きに対する意識的な認識、などによる相互作用があり、それが体を動かし、内観も動かしてゆくと考えられる。
人体を、外からみるのでも、内から見るのでもなく、自分のものとしてみるのでも、他人のものとしてみるのでもないような形で、捉え、変形させるような、作品がつくれないだろうか。
下の写真のエスキース群は、体を、他人のものとして外側から捉えることと、自分のものとして内側から捉える感じとを、意図的に混同することによって得られた、外-内的な人体の「動き」のスケッチで、ある「動き」を、平面上の構造によって示そうとしたものだ。日常的な動きもあれば、自分にはとてもできないアクロバティックな動きもあり、また、「逆立ちしようとしたら、右脚がつけ根から外れて体内に向かって落ちてきたが、左肩から抜けて外へと零れ落ちた」というような、構造的(現実的)に不可能な動きもある。
とはいえ、下のエスキース群は、それを描いた自分にとっても半ば以上は暗号のようなもので、白い面と黒い線による平面的なその構築物が、(形態的類似性というよりも、構造として)何かしらの形で体の動きを掴んでいるように思われる、ということでしかない。制作は、自分が描いた暗号を解読することでもある。
現時点では、これらのパーツをもっともっとたくさんつくって、それを何かしらの形で組み合わせることで作品ができないだろうか、と考えている段階に過ぎない。




































●下の写真は2007年に人体クロッキーを始めた頃のもの。この時点で、人物を描くのは受験以来で17年ぶりくらいだった。まわりの顰蹙をかいながら、A1くらいの大きな紙に描いていたのだけど、(他人の)体を描くことが、(自分の)体を動かすことだということが意識される必要があった。