●13日のつづき。
心の哲学入門』(金杉武司)では、心物二元論の問題点として、二元論の元で心物因果を認めると「念力」まで認めなくてはならなくなるということと、他にもう一つ、因果経路の二重化が起こってしまうという点が挙げられている。
カレーの匂いにつられてカレーが食べたくなってカレー屋に入るという出来事が起こる時、一方で、「刺激(物)」→匂いの「知覚(心)」→食べたいという「欲求(心)」→「身体運動(物)」という常識的に考えられる因果の経路があるが、もう一方にいわば神経生理学的に考えられる因果の経路として、刺激→脳状態α→脳状態β→運動という経路が考えられる。後者は全て「物」の因果であろう。
この両者はどちらも同じくらいもっともらしい、というか、どちらか一方を否定することは出来ないように思われる。しかし、どちらも等しく真である二つの因果経路を認めることもまた、出来ないように思われる。
(つまり、「念力」「因果経路の複数化」は、近代科学以降の世界観においては、それを認めたら根幹が崩れてしまうようなものだ、ということ。だが、この前提を受け入れるかどうかにも、いろいろ議論はあり得るだろう。)
ここでこの難問を解決するために考え出されたのが「心脳同一説」だという。心と脳状態が「同一」であるとすれば、「知覚=脳状態α」「欲求=脳状態β」となって、因果経路が一本化できる、と。
ぼくは最初この考えをまったく理解できなかった。知覚と脳状態が「同じ」という時に「同じ」とはいったいどういう意味なのか。違うものを「同じ」だと強弁すること(「同一」という言葉を拡大解釈すること)で問題をないことにしているだけではないのか、と思った。
この本では、「明けの明星と宵の明星が同一であるように同一」というような言い方がなされているが、それもわからなかった。明けの明星も宵の明星もどちらも地球から見られた「空にある星」である。そしてそれが同一だと言えるためには「金星」という惑星の存在が、地球の外から見た大きな俯瞰の視点によって「実体」としてとらえられているからではないか。例えば、電気と磁気とが共に同じ「電磁気」であるというように、明けの明星も宵の明星も同じ「金星」であるという風に、メタレベル(電磁気・金星)が設定(発見)されることによって「同一」と言える。しかし、内的で一人称的な「心」と外的で三人所的な「脳状態」が、「同期的に相関する」のではなく「同一」だというのは、どういうことなのかわからない。相関するとしか言えないものを強引に同一であると言っているだけのように感じられる。もし、心も、物も、共にどちらも同じ実体「X」の二種類の現れである、というような、心も物も越えた超越的「X」が想定されているという立場だということならば分かるが、それだと物的一元論にはならなくて超越的「X」の一元論――プラトニズム?――になってしまう(例えばペンローズは、物質界、精神界、イデア界の三界の相互作用がこの宇宙だと言っていて、それに同意するかどうかはともかく、何を言っているのかはわかる。)。
(この「納得の出来なさ」は、二元論者による一元論へ批判の一つである「知識論法」に対する一元論者からの反論についての「納得の出来なさ」と似ている。この反論では、一人称と三人称との違いを、たんに、「同じ棒」の長さをメートルで測るかヤードで測るか程度の違いとしてしかみていないことに納得できない。1メートルと1.1ヤードが「同じ」であるように「物」と「心」は同じなのだと言われても納得できないだろう。「想定可能性論法」――いわゆる哲学ゾンビ――に対する一元論者の反論は納得できるのだが。)
しかし、次の「機能主義」がでてくることでその意味が少し理解できるようになった。心脳同一説では、脳のある神経繊維を人工繊維に置き換えたら「物が変わった」のだから「心の状態」も変わってしまうことになる。対して機能主義では、「物」を取り替えても「機能」が同一ならば「心」もまた同一であると考えるという(つまり人工脳も可能という立場)。
例えば、歯車と錘やバネとをあるやり方で組み合わせることによって時間の進行を示す時計の機能をもつようになる(歯車の素材が木であっても金属であっても機能は同じ)、というような意味での「機能」が複雑化したものが「心の状態」だと仮定しているだけなのだが、「心」を「機能」と言い換えることで、機械仕掛けから心までが、連続的な発展であるように考えられる。つまり、同一のメカニズムが同一の機能を持つように、同一の「脳の状態」は同一の「心」をもつはずだ、といいたいのはわかる。
カニズムとは「物質による非物質的な形式(物と物との関係)」と言えよう。異なる物質を使っていても、同一のメカニズム(関係)が実現されれば同一の機能をもつのは、メカニズムに非物質的性質(非物理的ではない)があるからだろう。つまり、メカニズムが前述の「X」の位置につき、物質と機能(心)を媒介する項となると考えられる。だから、物質/メカニズム/機能の三層構造となる。しかし、物質→メカニズム→機能という階層関係は一本の因果関係(経路)として物理的につながっていて、その間に「念力」のような飛躍を必要としない(物理法則により説明可能)と考えられる、いうことだろう(でも「創発」は?、というつっこみはあり得る)。
ここから遡行して考えることで「心脳同一説」がなにを言おうとしていたのかがようやく理解できた。まあ、理解できたというより、恣意的な解釈だがこのように考えれば納得はできる、ということなのだが。要するにそれはエネルギーと質量は「同一だ」という意味での「同一」を言おうとしているのではないか、と。例えばそれを示すのが「E=mc²」という式で、それは質量からエネルギーへの変換、エネルギーから質量への変換が、そのような関係(規則)において可能であるということを示す。だから、「E=mc²」という法則(関係)が媒介することで、エネルギーと質量とが飛躍(念力や魔法)なしに因果的に繋がる、ということだろう。つまり、超越的実体「X」の二つの現われ(幻)が、「心」と「物」という形をとるというのではなく、関係「X」を媒介とすることで、「心」と「物」は魔法抜きで変換可能なのだ、というような繋がりを得るということではないか、と。
(そして「意識をもつ物質=脳」は、「E=mc²」のような変換メカニズム装置であるようなあり方で存在している、と。)
ここで、納得できたというのは、「心脳同一説」や「機能主義」とこの本で書かれていることが「何を言っているのか」が理解できた(と思える)ということで、それに説得力を感じたということとは、違う。