●『ガッチャマンクラウズ インサイト』第7話。面白いなあ、そうくるのか、という感じ。
「みんなの心」を抱えきれなくなったゲルサドラがクラウズもどきみたいな妙な群衆を吐き出す。例えば、クラウズが創り出す群衆を構成する個は、一人一人、実在する人間である。つまり、一個のクラウズは一人の人間の意思によって操作されている。一人一人の意思の集団化によってクラウズは群衆となる。たとえそこに動員や同調圧力が作用していたとしても、一人一人は別人である。だが、ゲルサドラが吐き出した新たな群衆は、一人一人の「心」が、いったんゲルサドラのなかで集約され、全体となり、しかしその全体が飽和して、多へと砕け散ったものだろう。豚肉や牛肉としてあった個が、ミンチされていったん合挽き肉になった上で、複数のハンバーグとして改めて切り分けられたというような個があつまって出来た群衆だと考えられる。これは、個(一)、群衆(多)、そして個と群衆との関係のそれぞれに、それ以前とはまったく質的に異なる変化をもたらすはずだろう。このハンバーグ的な個-群衆が、今後どのような動きをみせるのかは分からないが、クラウズ(「みんなで進化」派)に対する「エリート主義」派の妨害のようなやり方での制御は通用しないと思われる。
フィクションは、このような新たな概念を一つのイメージとして提示することができるという点が素晴らしいのだと思う。まずは、このハンバーグ的な個-群衆が、どのような動きをみせ、それよって社会の様相がどう変化するのかという描写がつづくのではないかと予想し、期待する。そして、そこからどのような「問題」が抽出されるのだろうか。ここで示された新たな個-多のイメージのリアリティは、その描出にかかっていると思う。
●一方、ガッチャマン内部の対立は、各自の主張や性向の違いがますます明確になってくることで、ますます剣呑になってきた。とはいえこれは、はじめが言うように「それぞれが答えを探している」状態で、要するにこの状態が「普通だ」と言える。一見、人の意見をまったく聞かないつばさもまた、同様に「答えを探している」一員なのだ(つばさを嫌う者は、つばさと同じ過ちを犯している)。つばさの暴走と、はじめの熟考を両極端とする、ガッチャマン内部での様々な思想や行動の違いとその対立そのものが「思考」であると言える。遊び呆けている清音さえも、それが思考なのだ。だからガッチャマンとは、このような対立を、つまりは「思考する事」を可能にしている場であり、枠組みであると言えるのではないか(つばさの暴走もまた、ガッチャマンと敵対するものではなく、「ガッチャマンという枠組みが可能にする思考」の一部だと言える)。逆にいえばこの作品では、「思考」が可能ではない場として(あるいは、思考をなし崩しにしてしまう場として)、「社会」が描かれている。
●ゲルサドラの体型がミリオに近づいてゆくという形態的な類似も面白かったし、久々にベルク・カッツェの活躍がみられた――聞けた――という意味でも、面白い回だった。あと、パイマンの「愚かさ」の描写――何もわかっていないのにいちいちどうでもいいことで口を挟んでくる、悪い人ではないのだが――の容赦のなさが、ああ、こういう人いるよなあと思いつつ、心に刺さる。