筒井康隆の読者では全くないが、惹句に乗せられて「モナドの領域」を読んでみたのだけど、普通に読めばやや平板な展開の小説で、これをどう面白がればよいのか、なかなか難しい。完璧な神様(GOD)と、平板化され完璧に作者のコントロール下で駒となった(ことが露わにされる)登場人物たちによる話。
(例えば最近の深夜アニメでは、キャラを意図的に平板な紋切り型の駒にしておいて、その関係性の複雑さや、相互作用による関係の展開(変化)の方をみせるというパターンも多いのだけど、そういうわけでもない。ただ、お説教する神様がいて、次々に神様に付き従うようになる駒としての人々がいる。)
(この小説は一種の「対話小説」でもあるが、対話の一方が「神」なので、常に神の側が勝つことが事前に決まっていて、その点でドストエフスキーとはまったく異なる。ちょっと麻耶雄嵩メルカトル鮎や「神様」シリーズを連想させる。)
●読んでいる途中にまず思ったのは、小説というメディア、小説の登場人物、小説の読者、そして小説の作者までを含めて、そのことごとくコケにするような小説、という感じなのかなあ、ということ(まさに麻耶雄嵩のように)。しかし、コケにするというのは、貶めることで「(挑発的な)意味」を生じさせようとすることだけど、ここには挑発的な感触や貶めようとする感じはなく、「意味」を生じさせると言うよりどちらかというと諦念に近い風情で、ただ淡々としている感じ。だからこれは、「小説」というメディアにかかわる、虚構世界、登場人物、読者、作者という存在のことごとくを、ひたすらフラットにしようとする、一様に無意味へと帰着させようとする装置として意図された「小説」、ということなのかもしれないと途中で思い直した。
●神様が現われ、人間たちに対する神の絶対的な優位と、この世界と人々の存在の無意味さを(世界や人々への「愛」を「付け加える」ことは忘れずに)宣言する。しかし(登場人物に対しては絶対的な優位にある)その神様にしても、別の角度からみれば、言っていることは哲学や神学や数学の「まとめサイト」みたいなことだともいえる。人々が神にひれ伏すのは、神の言葉や存在の絶対的な説得力のためではなく、たんに作者が「そのように書いている」からに過ぎない(ということが意識される「書き方」をしている)。
もしかすると「(小説の外の)現実世界の専門家」は、「小説内の神」のロジックの間違いを指摘するかもしれない。間違えるはずはない「絶対的神」が「間違い」を指摘され得るのは、それを書いたのが「(小説の外にいる)作者」だからであり、小説内の世界が作者の想定内に限られるからだ(小説外の「作者」は、小説内の人物に対しては神として専制的に振る舞えるが、小説外の「批判者」に対してはそうではなく、同等である)。つまり神の背後にはほぼぴったり重なる作者がいることが、神があまりに絶対的であることによってかえって露呈する。神という超越的な「登場人物」によって、登場人物(GOD)≒話者≒作者という繋がりが顕在化され、それぞれの差異が垂直に串刺しされ、短絡される。
ここで「世界」とは、「この世界」というよりも「小説内世界」であり、このレベルには通常「作者」は存在しない(「作者」という登場人物は存在するかもしれない)。しかし、登場人物としての絶対神≒作者という短絡により作者が虚構内に半ば割り込むことで、世界(虚構)、人々(登場人物)、神様(登場人物)≒「小説外(この世界)の作者」が繋がり、そしてそこに、実際に「この小説」を読んでいる「(この世界の)読者」をも繋がって、虚実の階層性を越えて作動する「小説」というメビウスの帯のようなサイクルが生まれる。この作品では、このサイクルから「意味」を抜き取ろうとしているように思われた。
虚構内の人々(登場人物)は神によって無意味(不能)を宣言されるが、その神(≒作者)にしても、「この小説」の外部にある別のテキスト(ライプニッツなど)を参照してもっともらしく世界を語り、神らしく振る舞っている者に過ぎないとも言え(小説の外では絶対的存在ではなく)、「読者」は、(言い方は悪いが)その程度の神によって作られた世界(小説)を、そうと知った上で、しかし、その世界や人物や謎に(そして作者に)没入し、魅了されている存在だ(作者は読者にとって「憧れ」や「尊敬」や「興味」を介する上位審級ではあり、読者は、神≒作者を相対化しつつも、同時にそこに巻き取られている)。小説・登場人物・作者・読者という四者を繋ぐサイクルは、互いに対する互いの超越性(あるいは絶対性)を打ち消し合う構造となっているように思われる。
(ここで「愛」という――おそらく作者が意図的に仕掛けた――「ひっかけワード」にあえてひっかけられるとすれば、神≒作者が登場人物たちを愛していることが示されているだけではなく、虚構世界・登場人物・作者・読者のそれぞれが互いを相対化――脱絶対化――しつつも、それにより互いに互いを愛することが可能になる、という構図が描けるかもしれない。)
この作品では、小説というメディアによって生じるこのサイクル(機械の作動)は、全体として徒労であり、無意味であることが示され、しかしそうであることによって、そのサイクルの徒労さが「人の生(あるいは、人の世)のあり様」と重ねられ、無意味ごと肯定的に受け入れられるように思う。小説の無意味さと人生の無意味さが重ねられた上で、共に肯定される。一種の「悟りの境地」のような状態が、「読者の存在」を予め巻きこんだ機械として起動するような仕掛けを、この小説はもっていると考えられる。
(よって、小説は平板な展開をみせるし、クライマックスやオチも――おそらく意識的に――ありきたりである。)
(いや、今の時点では「ありきたり」にみえる――平行世界物やループ物はいまやたくさんあるが――「このオチ」を最初に考えたのはオレだからな、という自負が「例の作品」への言及なのかもしれない。)
つまり、神が出てはくるけど、超越的な神や神的なものを主題にした話ではないように思われる。小説の「内」に絶対的な神を登場させることで、超越的な「小説という神(価値)」はないと宣言し、小説をめぐるサイクルを(小説の「外」にある)無意味へと帰着させて、その上で、その無意味こそを肯定しようとしている、と考えられる。
●で、そのような試みをもつこの作品が面白いものなのかどうかということについては、今の時点では「分からない」と言うしかないかなあ、と。
●雨上がり(一時的な)。