●『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第三話。おお、傑作の気配が漂ってきた感じ。今後に期待したい。
●必要があって、『マインド―心の哲学』(ジョン・R・サール)を (かなりがっつりと) 読んでいるのだが(半分まで進んだ)、面白くないのでなかなか進まない。なぜ、この本が「心の哲学」の最良の入門書という位置付けになっているのか、前半の記述だけをみる限りでは、よく分からない。
読んでいてイライラするのは、記述が論理的ではないという点だ。例えば、『心の哲学入門』(金杉武司)ならば、論理的に書かれているので、納得できないところは、なぜ自分はこの記述に納得できないのか、ということをじっくり考えることが出来るようになっているのだが、この本は、一見論理的っぽく書かれているようで、都合のいいところだけ論理的で、都合が悪くなると「常識(あるいは直観)に反する」とか(いやいや、その「常識」を検討するのが哲学でしょ、と言いたくなる)、「多くの専門家たちはこの説を支持しない」とか(だから、「何故」専門家はそれを支持しないのかが問題でしょ、と言いたい)、そういう言い方になっていて、読者がそれについて「考える」ための資料を充分に提供していなくて、ただ、著者による自説への印象主義的な誘導の意思を感じることになる。
(具体的に言えば、「二元論」「独我論」を否定する時、それを否定する論理的な根拠を充分に示さずに、常識的に考えにくい、それを採用している専門家は少ない、などの理由を挙げるだけになっている。二元論を排する理由として、(1)心物因果が説明できない、(2)現代の物理学と相容れない、という理由が挙げられる。(1)にかんしては確かに二元論の大きな困難といえると納得できるが、(2)にかんしては、そもそも二元論なのだから「物理学」がその一方である物質的な世界にだけあてはまると考えるのは、論理的におかしくはないと思われる。つまり(2)の理由は既に二元論の否定を――常識を――前提としてしまっているものだ。それに、サールのいう現代の物理学は古典力学的であり、例えば量子論的な「観測」の問題などは無視されている。つまり、「物理学(科学)」と言ってはいるが、実はそれは「常識」のことなのだと思われる。)
要するに、「心の哲学」業界ではこんな感じのことが問題になっていますよ、というような事情通的な地図(文脈)の提示――そこでは「心は存在しない」というような「唯物論」が優勢だ――と、でもそれって常識(直観)に反しますよね、「心」ってありますよね、ぼくはこう考えるのだけど、こういう言い方の方をすると「常識」が哲学的に様になるし、説明したっぽい感じになるでしょ、という感じで、新たなヴィジョンの提示や、読者それぞれが「思考する」ための助けになるような情報は(少なくとも前半には)あまりない。「常識」を洗練された哲学的用語によって書き換えた(常識を哲学によって権威づけした)、というように思えてしまう。
ただ、さすがに情報(「心の哲学」業界における問題の配置)が整理されてはいるので、ああ、成程な、あれはこういうことだったのか、と思うところがないわけではない。それに、「常識」を哲学的に擁護する時の論理の展開にも、面白いところがないとは言えない(例えば、因果的還元と存在論的還元は違うし、消去的還元とそうでない還元とは違う、とか、「水とはH₂Oにほかならない」という時、実は、「H₂O」という分子構造の「発見」が、過去に遡って「水」という語の定義に入り込んで、再定義しているのだ、というところなど)。無知な初心者であるぼくとしては、その意味でこの本を読むことは無駄ではないし(試験勉強をしているようなものだが)、入門書だから、そういうものだと思って読めばいいのかもしれない。しかし、そのようなで意味なら『心の哲学入門』(金杉武司)の方がずっと説明が丁寧で親切で分かり易くて、優れているように思われる。
●あと、有名なサールの「中国語の部屋」という「強いAI」を否定する思考実験は、あくまで九十年代に構想された人工知能にしか対応していないのではないかと思われた。そこでAIの中味として想定されているのは、中国語でなされるあらゆる問いかけとその答えのバリエーションの全てを、前もって完璧に備えている辞書(プログラム)だ。しかし、現在構想されている人工知能にはそのようなプログラムは必要とされていなくて、ディープラーニングなどによる学習とか、膨大な情報を確率論的に制御してなされる出力とかがあるわけなのだから、部屋の中味が「中国語の部屋」とはかなり違っているのではないか。