●昨日の日記で『マインド―心の哲学』(ジョン・R・サール)の記述が論理的でないことに対するいらだちのようなことを書いたけど、この本がひろく受け入れられているのは、まさに「論理的ではない」からなのかもしれないと思った。多くの人にとっての興味は「論理」にあるのではなく「見取り図」にある。それは、見取り図がつまり「社会的な関係性」でもあって、ふつう、人が生きてゆく時に必要なのは「論理性」ではなく「社会的関係性」であるからではないかと思った。
嫉妬とか義憤のような「感情」は、社会的関係性のなかで生じる。人が生きるのに必要なのは、論理的に真であることを導き出す力でもなく、今まで誰にも考えつかなかった論理的な構成(斬新な仮説)を生み出す力でもなく、自分が属するある関係性のなかで、他者を説得し納得させる力や、合意形成を導く力だろう。
(ぼく自身は、自分の論理的思考力の低さを自覚しつつも、関心が、社会や政治にではなく、「わたし」や「宇宙」にしか向かわないことを否応なく自覚せざるを得ない。)
サールの記述にはときどき、論理的にはAを否定することにならないにもかかわらず、あたかもそれによってAが否定されるかのような印象をつくるような書き方がみられる。サールという人が頭のいい人であることは間違いないだろうから、それに気づいていないはずはないと思う。ならばそれはたんなる間違いではなく、意図的にそのような操作を行っているということだと理解せざるを得ない(後になって、実は二元論を反駁できていない、と、ちらっと書いたりもしているので、確信犯であろう)。
サールはもしかしたら、心身問題などどうせかっちりとした解答は得られないのだから、そのとりあえずの解決を、(神秘主義者を喜ばせるような)過剰にミステリアスなものでも、(中二病を引きつけるような)直感から離れた突飛なものでもない、常識的で穏当なところに落とし込むことが、「社会的」にみれば望ましいことなのだと考えているのかもしれない。
(かちっとしたアカデミックな論文ではなく、あくまで一般向けの入門書なのだし、ということもあるだろう。)
論理的な正しさ、あるいはこの世界の理としての正しさ(物理的な正しさ)と、社会的、政治的なものとして構成される正しさとは異なる。そのとき、政治的な正しさは物理的な正しさとは自律的に存在するのか(二元論)、それとも、政治的な正しさは物理的な正しさに「随伴する」だけなのか(強い唯物論)。あるいは逆に、政治的な正しさこそが物理的な正しさをつくりだすのか(観念論=社会構築主義?)。これも一種の心身問題なのか。
アンコールワットと言おうとして、マリーアントワネットと言ってしまった。