●永瀬さんのツイッタ―でリンクされていた《「人間社会で生きたくない」と19年前死亡認定の男性》という記事をみて、人は「他者から観測されていない」状態でどの程度「人(あるいは「わたし」)」としての輪郭を維持できるのかということを思った。あるいは「他者から観測されていない」状態の生とはどのようなものなのかを思った。
http://www.sankei.com/world/news/151111/wor1511110029-n1.html
そもそも「観測されない」ということは可能なのだろうか。晩年のグロタンディークは人との関係を絶ちピレネー山脈で隠遁生活をしたという。しかし、グロタンディークの死は孤独死のようなものではなく、サン=ジロンの病院で亡くなったというのだから、最低限の「人とのかかわり」はあったということだろう。あるいは、終戦後30年ちかくもフィリピンのジャングルで一人で生活していた小野田寛郎は、それでも独自に情報を集め、戦後の日本の繁栄をある程度は知っていて、《日本はアメリカの傀儡政権であり、満州亡命政権があると考えていた》(ウィキペディア情報)という。つまり、社会を観測することで逆照射的に「観測」されていたことになる。彼自身の内部に(社会的に)組み込まれた「他者の目(他者構造)」は30年もの間ずっと機能し続けた。
『狼の群れと暮らした男』の著者は、「狼の群れの一員」となるためロッキー山脈の森の中へ単身で入り込む。彼は、森に入り込んで四ヶ月目に狼の群れと出会い、九ヶ月後には群れの一員として認められるまでになる。ならば、群れと出会うまでの四か月間、完全に孤独であり、何ものからも観測されない状態として存在していたことになるのだろうか。
しかし本の記述によると、森のなかでの孤独や恐怖のなかで、次第に嗅覚と聴覚が敏感になってゆき、耳と鼻によって目には見えていない森の動物たちの動きや存在を感じられるようになってゆき、そして、自分が動物たちを見ているという以上に、動物たちから見られているのだという感覚が生まれてきたという。著者は人間ではないものによって「観測」されている。
だが彼は少なくとも、「人間(社会)による観測」からは逃れられたと言えるのかもしれない。とはいえ、彼が感じていた「動物たちからの視線」が、人間社会のなかで成人した彼のなかで「社会」によってつくられた「他者の目」という構造からどの程度逸脱できていたものなのかは分からない。そもそもそれがどの程度「言語によって記述」できるものなのかも分からない。
(追記。森やジャングルには生き物がいるが、砂漠ではどうだろうか。生きるのに必要な装備をそろえ、たった一人で砂漠の真ん中で長期間生活したとしたら、どうなるのだろうか。まあ、シャーマンとか、宗教的な修行とかでありそうだけど。それと、砂漠だと、空から観測されてしまう可能性もある。)