●九十年代のアニメで格好の良いキャラクターの多くは体制内のアウトローといえる存在だった。いわば与党内の反主流派で一匹狼みたいなポジションで、典型的なのが「攻殻」のアラマキやクサナギ、「パトレイバー」の後藤などだろう。彼らは、あくまで体制の側にいて(公安や警察だ)、しかし権力の中心や主流にいる人たちとは違う動き方をする。そして、そのような彼ら(の個人的な努力)こそが、権力の中枢の腐ったダメな部分を補い、支える、縁の下の力持ちとして機能する。偉い人たちは腐っており、体制内反主流である彼らの活躍と矜持こそがこの世界の秩序を支えている。彼らが、自分たちを進んで悪者にすることで、あるいは体制内に居続けるという「やせ我慢」をすることで、混乱は収められ、秩序は回復される。これは、六十年代や七十年代のように、秩序を破壊したり転覆したりするアウトローが格好良かった時代とは明らかにモードが異なっている。世界は既に混沌としているのであり、混乱は人々の不幸しか招かない。一定の権力や権限を持つなかで行動する体制内アウトローの矜持こそが、そこに秩序を回復させる。それが九十年代の「社会派フィクション」のリアルだったと思う。
(体制内アウトローは、精神としてはアウトローだから、彼らとその敵とは実は似通っており、鏡像的である。というか、彼らは敵との戦いを通して、実は「体制の中枢の無能さ」と戦っている。要するに敵と同じものを「敵」としている。しかしそうであっても、「敵の敵は味方」とはならなくて、同時に二つの敵と戦うことになる。彼らにとって、「中枢の無能さ」も「無能な中枢を攻撃する者」も、どちらも「秩序を破壊する」という意味で敵である。)
(九十年代の黒沢清の作品、例えば「キュア」なども、大きく括ればこの系列に入ると思われる。)
(それとは別に非社会派である「セカイ系」という流れも勿論あるが。)
しかしその行動は、結果として、腐った権力者たち、あるいは体制の維持に貢献することになる。公安九課で最も青臭い人物であるトグサは、事件の終結の度にジレンマを感じる。自分たちは勝ったが、それで何が変わったのか、と。せいぜいダーティーな政治家や官僚の一人か二人が失脚したというだけではないか、と。そしてクサナギもまた、自分にとっての正義を求めて迷走する。革命は、もはや夢見ることさえ許されず、まったくリアリティのないものになった。
(だが、それから二十年経った現在の「現実の政治」をみていると、「体制内アウトロー」の存在を幻想することすら困難であろう。現実の「この場所」は、体制内アウトローの支えなどもはや存在しないタガの外れた世界のようにみえる。そのような認識で、そのような世界の希望の無さを、最も弱い立場の人々の視点からシビアに描いているのが「進撃の巨人」なのではないか。)
九十年代的なヒーローである「体制内アウトロー」は決して世界を変えず、無名の存在として黙々とその維持に貢献する。それは最悪の混乱(破壊や転覆、テロのようなもの、つまりそれは「世界を変えようとする者」によって引き起こされる)よりはずっとマシであるが、それだけでは硬直し、閉塞しつづける状況はなんともならない(秩序の維持とは既得権の維持であり、今、勝っている者がその位置に居つづけるということだ)。変化は破壊であり、維持は硬直であるとすれば、どうすればいいのか。さらに言えば、彼らが属する「体制」とは「国家」が単位であり、国家間の紛争や、グローバルに活動する秩序破壊者には対応しきれない。では何が、あるいは誰が、世界を変え得るのか。
おそらく現代のフィクションのリアリティでは、その希望は天才やエリートに託されているように感じられる。とびぬけた能力や頭脳を持った人や集団、あるいはそのような人(たち)がつくったモノやプログラム、テクノロジーによってのみ、世界が変わり得る希望がある。そして、知や技術は資本と共に国境を越える(天才主義はグローバルな資本主義と相性が良い)。この感じは、最近のハリウッド映画における偉人の伝記映画の流行によって反映されているのではないか(アラン・チューリングスティーブ・ジョブズマーク・ザッカーバーグスティーヴン・ホーキングなど、あるいはジェームス・ブラウンとかも)。あるいは、超人的頭脳をもつ「シャーロック」のテレビシリーズの流行などもそこに含まれるかもしれない。彼らは頭脳として存在し、政治や荒事ではなくプログラム(音楽なども含む)や制作物を通じて問題を解決する、あるいは何か(状況)を変える。
あくまで縁の下の力持ちである「体制内アウトロー」とは異なり、天才は有名人である――固有名を有する――が、しかし、英雄、リーダー、救世主のような存在ではなく、たんに「ある種の能力においてとびぬけている」だけであり、理想や志や矜持をもっているとは限らない。世界を変えるとしても、それは彼の能力、技術、あるいは制作物が変える――おのずと変えてしまう――のであって、彼の志や思想や理想が変えるのではない。その点で「天才の物語」は、いわゆる社会派としては弱いものになるだろう。
(だいたい、二十世紀において天才たちの開発したテクノロジーが主に何を生産したかと言えば、それは戦争における大量死であろう。)
社会が世襲権威主義、コネとしがらみで硬直している時、能力主義は風穴であり希望であり痛快でありえる(一休さん頓智将軍様をやりこめるような痛快さ)。しかし、世襲権威主義と天才主義(的能力主義)は両立し得る。社会全体としては固定的で権威主義的であり、ごく一部のとびぬけた天才みが例外を認められる。権威主義的社会を維持するのには天才が必要だから――天才がいなければ競争に負ける、逆に天才を取り込めれば既得権は維持し続けられる――という風に。天才とはただ「能力」の問題であり、無茶苦茶に頭が良いということで、「アウトローの矜持」というような美意識や倫理、精神と無関係に存在する。あるいは、政治思想や立場――体制や権威の内か外か――とは無関係に存在する。
(天才が、世界破壊側に回ることも充分あり得る。)
とはいえ、「革命」に必要なのは「天才」であって決して「民衆」ではないという感覚を否定するのは難しいように思われる。そのような事実を前に、民主主義やリベラリズムが説得力を持てるのだろうか。そこにあらわれるのは、極端かつ「正確」な能力主義であり実力主義であろう。そのような能力主義は生身の人間にとってはあまりに過酷過ぎる条件ともなるだろう。実際、ほとんどすべての人間は天才ではない。
いまや、この「天才」の位置に、必ずしも人間がつく必要はない感じになっている。ビッグデータの解析など、莫大な情報収集力と計算処理能力を持った人工の知性が考えられる。シンギュラリティ後の人工知能への希望と恐怖。たとえば「サイコパス」。ぼくは、シビュラシステムが支配する社会は、様々な問題はありつつも、少なくとも現代の日本よりはずっとマシで、多くの人にとって平等と幸福が実現されているように思われる。「進撃の巨人」の世界――これはほぼ「現代日本」だ――と「サイコパス」の世界のどちらに住みたいだろうか(「進撃…」のサバイバル世界の方が「生きる実感」を得られる、と考える人も一定数いるだろうとは思うけど、そういう人は天才ではないにしろ、とても優秀な人であろう)。つまり「天才(人工的知性)」は社会を変え得るのだ。とはいえ、作品としての「サイコパス」はあまりに突っ込みどころや穴が多すぎると思うけど。
しかし、たとえば現代の「科学」は、物――対象と実験装置――、論理――数学――、体系――累積され階層化された知の集合――という三つ巴が、切り分けられない程にマーブル状に絡み合ってできている稠密な構築物としてあって、そこに属人的な意味での「天才」の介入で劇的な変化が起こることは考えにくいのではないか。そしてそれは社会も同様ではないか。つまり天才――固有名――の物語は実はもはや成立しなくて、社会の未来についても「科学の進歩」のような、人類全体としての知の一歩一歩の累積――これもまたエリートたちによって担われるわけだが――に希望を持つしかないのかもしれない。それ(人類全体としての知の一歩一歩の累積)は確実に何かを変えてゆくのだろうと思う。
だが、物語にはそのような過程を描くことが難しい。これは物語と言う形式の限界かもしれない。