●『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』第9話。うーん、世界は厳しい。
もうこの世界のどこにも公安九課は存在しないし、ノブリス携帯を配るような人物も存在しないということが前提になっている。それが「オルフェンズ」や「進撃」の世界なのではないか。あらゆる人物、あらゆる陣営が、自分の身内が生き残る(身内のための自己犠牲はアリで)ことだけを目的として、駆け引きと殺し合いをしている。そこには、普遍とか正義とか理念のようなものは、その存在の想定すらなされない。
ガンダムUC」には明確に、未来への信仰と理念の存在が謳われていた。「UC」で、最終的にフル・フロンタルではなくバナージとミネバのカップルが選択される理由は、未来(バナージ)と理念(ミネバ)への信仰以外にないだろう。事実上、それはほとんど空虚なもので、例えば「ニュータイプ」という概念には実質上の中味がなくて、ただ、人間は進化し得るという「信仰」がそこに託されているのみだし、ラプラスの箱というのも、実質上の中味はなく、ただ「理念があり得る(しかし理念の中味はない)」ということへの信仰だけを示すものだろう。それは、とにかく「未来へ託す」というだけの理念かもしれない。
しかし、「オルフェンズ」の世界には、バナージやミネバは勿論、フル・フロンタル(全体の状況――様々な立場の違い――を俯瞰的に観て、現実的に最もマシな落としどころ――最大多数の最小不幸――を探ろうとする人)すら存在しない。様々な立場(集団)があり得て、全体はなく、そのそれぞれが自らの利己性のもと生き残りのゲーム(殺し合い)をしている。そこでは、能力のない者や下手を打った者は滅ぼされ、死ぬか支配されて搾取される。それが嫌ならサバイバルで勝つしかない。世界全体が、マフィアの抗争のような構造でできている。
では、なんでそんな世界で生きているのか。その世界に生きる価値がどこにあるのか。それはおそらく、身内のなかで発生する関係性の美しさであろう。「オルフェンズ」においては、例えばオルガと三日月とビスケットの間に生まれる(鉄華団内部に生まれる)関係の美しさこそが、「この現実」のなかの価値あるものとなり、この世界を生きるに足りるものにしている。普遍ではなく、このわたしにおける、この現実の、この関係性こそが重要であり、それが「美」によって支えられる。
(だから、「この関係性」を破壊する者は殺してもいい、となる。これは、「他の関係性」への想像力の欠如ではなく、他の関係性への「移動の可能性」の欠如であるように思われる。)
「この関係性」の「他の関係性」に対する優位を決定しているのは、正義でもプラグマティズムでもなく、「このわたし」が「ここ」に含まれているから、という理由だ。「ここ」「いま」「わたし」という錨となる位置の相対化不可能な性格が、「この関係性(この共同性)」の優位を正当化する。これは利己性ではなく、「わたしがいるこの場所(この関係性の美)」のためなら、「このわたし」は死んでもいい、となる。「わたし」よりも「ここ(この関係性)」が強くなる。この時、「普遍」や「理念」とは別の出自から発生する「未来へ託す」が生まれる。つまり、少なくとも「未来」への信仰は発生する。
つまり、こんな状況では右翼になるしかないんだよなあ、と。この状況に対する「希望」となり得るような「批判」はあり得るのだろうか。
(例えば「進化論」は? そこには生存競争を避けてニッチで生きるという手もあることが示される。これだけでは全然弱いけど。)
●しかし、「オルフェンズ」にも唯一、微かな「普遍」や「正義」の香りを宿しているクーデリアという人物がいることはいる。しかし彼女は、宙に浮いた理念であり、お客様の位置にあり、「弱いお姫様」であろう。「UC」のミネバはまさに「強いお姫様」であり、権威や様々な後ろ盾に支えられているからこそ、そこから逸脱する行為にも意味があった(ここで強い/弱いとは、性格や行動力という意味ではなく、お姫様という「役割」としての強さ、という意味)。しかしクーデリアは、担ぎ挙げられた有名人ではあっても、権威づけられた姫ではない首相の娘でしかなく、その父からも見放され、フミタンという謎の女性以外の実質的な後ろ盾がない。
(故に彼女は、作中人物の中でも最もあからさまに「使える駒」として非人間的に扱われ得る。)
しかしこの「弱いお姫様」の存在が、「オルフェンズ」という作品のとても重要なポイントとなっているように思われる。弱い姫であり、弱い理念であるクーデリアが、この物語のなかでどのような位置をもち、機能をもつかということによって、この作品の性格や面白さに、大きな違いが出てくるように思う。