●初台のICCで観た、ジョン・ウッド&ポール・ハリソン「説明しにくいこともある」がとても面白かった。重力と運動(力学)、物の硬さ、摩擦、弾性、粘度、そして人の身体、を語彙とし、古典物理学を文法として書かれた詩、という感じ。イメージの文法に従うのではなく、あくまで物理の文法に従うというところが面白いのだと思う。あるいは、物理から、物理によって、イメージがたちあがってくる、または、物理の隙間にイメージが入り込む、というのか。通常、われわれが表現から「物質性」を感じるのは、それが、イメージや言語の文法よりも物理法則を優先させた時なのだなあと思った。物質(性)とはつまり古典物理学(性)のことなのか、と。
特に初期のパフォーマンスと、「ノート」、「26(ドローイングと落下物)」と題された作品が面白かった。2000年代後半になってくると、古典物理学優先の作品だったのが、フレーム操作、シミュレーション、ナラティブ、記号とイメージ、といった問題が強調されはじめて、でも、そうなると、知的な作品としてまあわかるけど「すごく面白い」というところまでは行っていないように思われた。
(最近の作品でも、ひたすら落下するとか、ひたすらミニカーを爆発させる作品は面白かった。)
特にナラティブを意識した作品では、(やっているネタは初期とほとんど一緒なのに)物質の問題がイメージの問題にすり替わってしまっていて、そして、それが作家に充分に意識されていないように感じられてしまった。
例えば、ピタゴラスイッチのような装置を、物理エンジンを使ってCGでつくっても、あまり面白くないと思う。なぜ、それだと面白くないのか、というところを追究するのは面白いと思うのだけど、その前に、その違いがあまり意識されていないように感じられた。
●作品を観ていて思いついたいい加減な話。要するに、モダニズムというのは古典物理学なのではないか。そして、アバンギャルド相対性理論。ただ、アートはまだそこまでしか到達していないように思う。ポストモダン以降のアートというのは、「それ(古典物理学)の先はない」ということで社会化したり文脈化したりするのだけど、「いや、その先があるのだ」と言わなければいけないのではないか。
(ただ、その先は難しくなり過ぎるということかもしれない。ひも理論や量子重力理論が「実験で確かめられない」ように、作品が難しくなりすぎると「感覚できない」ものになってしまう可能性がある。感覚できないし、評価もできない、「でも、やるんだよ」と言えるのか。「STAP細胞はあります」と言い続けられるのか。)
●三時半くらいに着いて、閉館の六時まで二時間半くらい観ていたのだけど、全部の作品をちゃんと見るには、あと三、四十分くらい必要という感じだった。