●「似ている」ということに興味がある。例えば、最近YouTubeを観ているとよくタマホームの広告が入る。そこに出ている神田沙也加がびっくりするくらい母親の松田聖子に似ていることにたじろぐ。前は、そんなに似ていなかったと記憶しているのだが。
ここでニュアンスを正確に記すためには、「びっくりするくらい似ている」ではなく「面影がある」と言った方がいいのかもしれない。実際には、びっくりするほどには似ていないかもしれない。しかしぼくはその広告を見た時に「似ている様にびっくり」した。
もう少し詳しく書くと、神田沙也加の顔を見るとその向こう側に松田聖子の顔の影がチラチラ浮かんでくる、という感じだ。だから、似ているというより、その(造形的な)結びつきの強さに驚いたというべきかもしれない。
ここには非対称性があって、松田聖子の顔の画像を見てみても、その向こうに神田沙也加の顔が浮かんできたりはしない。この違いは、既に三十年以上芸能界に君臨している松田聖子の顔の方を長く、多く見ているという違いに過ぎないのかもしれないし、そうでないかもしれない。
親と子が、歳をとるにつれて似てくるというのは不思議なことのように思われる。むしろ逆で、若いころに似ていても時とともに固有性が増して離れてゆくのが自然な流れであるように感じるのだけど。
時々、母が、母方の祖母のイメージと重なって驚くことがある。母方の祖母はもう亡くなったが、子供の頃「おばあちゃん」が母に似ていると思ったことはなかった。全然似ていないと思っていた。それが最近は、母の向こう側に母方の祖母の姿が浮かぶようになった。造形的に似ているというより、喋り方、特に笑い方がそっくりであるように思われる。
もう一つ。ぼくは初期の宇多田ヒカルの声(特に「Automatic」と「Movin' on without you」)の向こうに、どうしても藤圭子の声が聞こえてしまう。これは「似ている」という感覚ともちょっと違う気がするのだけど。ちょっとした端々に藤圭子を感じてしまう。とはいえ、ぼくは自分の「耳」というものをまったく信用していないし、母娘関係であるという刷り込みなどにより、存在しもしない幽霊を見てしまっているだけかもしれない。
(機械的な顔認証の技術は既に人間の感覚をはるかに超える精度をもつという。声=音となれば、さらに精密に定量化できるのだろう。ならば、ある人と別の人とが「どの程度似ているのか」という客観的な数値を得ることか出来るだろう。それと、人間がもつ「似ている」という感じとは、どの程度重なり、どの程度ずれるのだろうか。「似ている」という感覚=幽霊はどのように生じるか。あるいは「似ている」と「デジャヴ」とは、どの程度似ているのか。)