●『社会の新たな哲学』(マヌエル・デランダ)を読みはじめた。以下、引用。
《私は言語を、決定的で特別な構成要素として常に論じる。これにより、言語的ではないがあたかも象徴作用をもつものであるかのように誤ってとらえられてきた表現的な構成要素を明確に識別することが可能になるというだけでなく、言語は問題の核心部分――今日にいたるまで何十年も誤って占められていた場所――から取り除かれるべきであるということを強調することが可能になる。》
デランダはドゥルーズを典拠としつつ、この惑星の歴史のなかで、物理的な表現性が機能的なものになった決定的な閾が存在したと書く。その一つ目の閾が遺伝子コードの出現で、二つ目が言語の出現である、と。遺伝子において、情報パターンが三次元構造に左右されるのをやめ、核酸の長い連鎖という一次元的な構造になり、さらに言語による音声化において、情報パターンの物理的な担体からの自律度が増し、遺伝子における近接性による(空間的)線形性とは異なる、時間的な線形性を獲得した、と。
言語はそのように、決定的で特別な要素ではあるが、しかし、遺伝子によって身体機構の「本質」が規定されていると考えるべきでないのと同様に、言語によって主観的経験や社会制度の「本質」が規定されていると考えるべきではないと書かれる。遺伝子的、言語的過程は、その他多くの非遺伝子的、非言語的過程と「並んで進行する」と。植物と蜂とのある環境下での共進化が、植物が主でも蜂が主でもないように。
●「言語」というものの地位の相対的な低下は、現代において必然的であり、また避けがたいことであるように思われる。ここから先はデランダとは別の話だ。
具体的であり、物理的ですらあるのに、知覚も感覚も表象もできない過程というものを考えことができる。例えば素粒子は、物理理論と実験(測定)装置の発展がなければ、その存在を知覚も感覚も表象(認識)も出来ないが、それは宇宙がはじまった時から存在し、我々がそんなことをまったく想像できなかった時代から、あらゆる物事に影響を与えていた。例えば、量子論的効果がなければ、原子はすぐさま潰れてしまう、など。
潜在性というのはいわば、具体的であり、物理的ですらあるのに、知覚も感覚も表象もできない過程のことであり、例えばラカンはそれを現実界と名付けるしかなかった。我々は自然言語によって思考するしかなく、自然言語では、それ以上の詳しい描像を描くことができなかったから。しかし現代では多少状況が異なっている。
度々引く例だけど、「データの見えざる手」に書かれていた量販店のホットスポットを見つけ出す話。一定期間、すべての店員と客の店内での位置と動きの情報をウェアラブルセンサーによって得る。その大量のデータを解析することでその店のホットスポットが算出され、実際、店員が常にその場所に立っていることで売り上げが大幅に伸びた、と。その時、コンピュータが何故、どうやってその位置を導出したのかは、データ量が多すぎるので人間には後追い的にも確かめることが出来ない。だが言えることは、コンピュータの解析には、どのような(人間的な意味での)象徴的過程も感覚(表象)も含まれていないということだろう。データ収集と計算は、象徴的な過程とも、人間の感覚や直観や経験とも無関係に、人間の行動に関する潜在的な傾向を見つけ出し、人の行動に影響を与えた。お客さんたちは、自分たちが影響を受けたことを自覚できないだろう。表象不可能であっても、計算可能であることがあり得るということをビックデータは示している。
(だがおそらく、このホットスポットは普遍的なものでも、それ程長続きするもの――同一性を持続させるもの――でもなく、様々な周囲の状況の変化によって移動したり、なくなってしまったりすると思われる。そんなホットスポットは存在しない――店員がどこに立とうが売り上げは伸びない――店もあるだろう。その意味で、潜在性は実在する/しないものであって――計算によって生み出すことはできない。)
これは勿論、ビックデータですべて解決、という話ではないし、言葉なんか大したことはない、という話でもない。言葉は依然として重要なものであり、人を強く拘束し、また、そこから多大な恩恵を受けるものでありつづけるだろう。ただ、二十世紀の哲学がそうであったようには、言語に中心的で多大な地位を負わせるわけにはいかなくなったことは確かだと思われる。