●12日のアートトレイスギャラリーでのイベントに映画監督の鎮西尚一さんが来てくださって、黒川幸則さんという映画監督を紹介して下さった。そこで黒川さんが最近作った『VILLAGE ON THE VILLAGE』という映画のDVDをいただいた。脚本が、Core Of Bells の山形育弘、撮影が、小林耕平作品の撮影をしている渡邊寿岳、そして、『季節の記憶(仮)』をつくった只石博紀が出演してもいる。『VILLAGE ON THE VILLAGE』というタイトルは山形さんが考えたそうだが、神村恵のダンス作品のタイトルにもなっているという。
これがすごくおもしろかった。自分は映画が好きだったのだということを久々に思い出した。とても幸福な夢を見て目覚めた後に、年甲斐もなくこんな甘い夢を見てしまったことに、自分がこのような幸福を欲望しているという事実に、自分の欲望の甘ったるさに、(幸福感の残り香もありつつ)恥ずかしくていたたまれない気持ちになってしまう(そしてまた、その幸福が自分には決して訪れないだろうという苦さも感じる)という時の、そこで見た「夢」のような映画だった。典型的なモラトリアム系の映画で、日本全体がリアルに『進撃の巨人』の世界みたいになってしまった現代でも、こういう作品は成り立つのだなあと思い、(「進撃」は本当にすごい作品だと思うけど)やはりぼくにとって必要なのは「こっち側」なのだなあと思った。
社会的な生産活動からこぼれ落ちてしまった若者が、謎の中年男性に拾われて、住居を提供され、そこにはまた別の若者たちもいて、近くの店には謎の美女もいて(要するに仲間たちがいて)、特に何をする事もなく、昼間から酒をのんでだらだら過ごしている。ただし、その土地には、何事かの執着に囚われたまま亡霊になってしまった者たちが固着されており、その幽霊たちからのちょっかいや攻撃を受けたり、彼らのメンテナンスをしたりしなければならないというのが、彼らの唯一の「仕事」である。ちょっと『ペドロ・パラモ』(ファン・ルルフォ)を思い出した。あるいは(山形育弘が脚本にかかわっている)『ring my bell』(鎮西尚一)の続編的な感じもある。
主人公は、ツアーの途中でバンドから降りてしまったミュージシャンのようで、たまにマネージャーと電話で会話するのが唯一の「現実的なもの」との通路である。人物たちは、生々しい欲望や感情をもたず、この世界には生産性もなく、人々はなんとなくふわっと存在していて、人間らしい生臭さを持っているのは幽霊たちの方である。そして、この世界には、どうにかしてふわっとした人たちを生臭いものの側へと引き込もうと策略を巡らせている者たちがいるようなのだが、彼らは人間なのか幽霊なのか。
(三十年も姿がまったく変わらないという「近藤さん」、かつて古賀さんのパートナーだったという「伊藤さん」、そして、主人公に住居を提供している「古賀さん」といった人たちは、本当に「人間」なのか?)
勝ち負けも、何かを作ったり謎を解くといった目標(目的)も、強い身体的快楽もないところで、ゲームは、あるいは遊技は、成立するのだろうか。いやむしろ、それらがなくても、ただ、ある環境があり、環境が強いる一定のルールや束縛があるという状況で、ルーティン的な行為を繰り返し、だけど、そのルーティンが徐々に、あるいはある時唐突に変化してゆくという、そのことこそ、実はゲーム(遊技)というもののもっとも重要なことなのではないか。
彼らは、「ゲームの世界」へと留まるために生々しさを捨てている。しかし、切り離された生々しさは、幽霊になって彼らを攻撃したりする。あるいは、彼らを生臭さの側に引き込もうとする力も、その場には働いている。それが「このゲーム世界」という環境であり設定である。彼らは、幽霊たちをメンテナンスし、策略や誘惑をうまいこといなしたり、かわしたりしなければならない。それがゲームの世界に居続ける条件である。
勝負も、目的も、強い快楽もないというゲームの設定によってはじめて可能になる時間と空間の広がりを、映画は構築する。仲間とだべり、飲み食いし、女の子と仲良くなる。そのような時空で現れる、宙に浮いた時間と適度な距離の疑似家族的な関係性がある。
(『ring my bell』の人物たちも似たような感じで浮き世離れしており、周りからみれば何も生産していないようにみえるが、しかし彼らはバンドの合宿中であり、演奏のレッスンをしてるのだ。だが、この映画の主人公は、バンドのツアー---音楽の生産---からこぼれ落ちた存在だ。)
勝負も目的も強い快楽もない世界で、ほぼ何もしない人がいる。しかしその場には、もはや無効になった目的に縛られてさまよう幽霊もいる。そして、人を生臭い欲望やネガティブな感情に引き込もうとする力も働いている。主人公は、そのような場所へやってきて、そして去ってゆく。観客は、主人公がその場所にとどまっている限り、主人公を通してその世界を(力の相互作用を、行為の連鎖を、出来事の移りゆきを、事物の運動や変化を、時間と空間を)経験する。ここで重要なのはおそらく、人物でも物語でもなく、このような力が作用する「場」が存在する(成立する)ということだと思う。我々はそのような「場」を、主人公というプレイヤーの(一つの)視点を通して経験する。
映像と音響によって構築された遊技的時空を、とりあえず主人公の身体の行為の連鎖を媒介して経験する。しかし、何故わざわざそんなことをするのか。それは、その経験が幸福であり、感覚にある喜びと活気を与えてくれるからだろう。
人は、自分の感覚器官と現実の物質や時空を素材として、象徴的な世界の構築と再配置(書き換え)を絶えず行っている、とする。それは具象的感覚を素材に構成された象徴的世界であり、それが、人が「現実」と呼ぶものだろう。
(人の身体は物理的世界と相互作用するプログラムであるとしても、人の主観性のプログラムが構成する「現実」は物理世界そのものではない。)
つまり、人が「現実」と呼ぶものは基本的には「ごっこ遊び」的な見立てと変わらず、しかしそれは、強いられた、容易には変更できない、共有された、人々の間に編み込まれた「見立て」であり、同時に、現実であると「信じられた」見立てであるというところが異なる。象徴的といっても、言語的であったり物語的であったりするとは限らない。感覚や質感が、ある価値づけとその配置によって構築されていることを象徴的と言っている(例えば、絵画において、色と色との関係によってある情緒的な質が生じている時、その情緒は象徴的である、という風に)。つまり、言語的、比喩的操作も、因果的、物語的操作も、感覚的操作も、同様に象徴を用いる能力に負っている、と考える。
(数学的操作、物理的操作は、とりあえずここでは除外する。ラカンをもじって、この世界を、象徴・想像界、論理・数学界、物理界の三界でできている、と言ってみる。)
そうだとすれば、人間にとってフィクション(遊戯・ゲーム)が有効であり、必須であるのは、それが「現実」と同じ素材で出来ているからではないか。ならば、現実と虚構は二分されるのではなく、グラデーション的に段階的に移行するものだと(つまり、繋がっていて、相互作用するものだと)言える。絵画に表現された情緒的な質は、現実的に「わたし」の情緒に作用する。現実は象徴的であり、ただ、切実度、切迫度の極めて高い(下手を打つと死んでしまうかもしれない)遊戯として生きられる。
(虚構は、自由度や実験性の高い遊戯として生きられる。)
重要なのは、象徴が、ある「価値づけの配置」として構成されていることだ。つまり、絵画における情緒的な質は、ただその時の「わたしの情緒」に作用するだけでなく、それを生むプログラムである「わたしにおける情緒的なものの配置(構築)」に作用する可能性があるということだ。
だから、仮想的遊戯世界を通り抜け、夢を通り抜けることが、現実に(現実に対する認識だけでなく、現実に対する態度や行為にも)影響を与える。というか、仮想的遊戯空間や夢こそが、現実への(認識や意味づけに留まらず)態度や行為やフレーム化のあり様が「作り直される(思考される)」ために必要な場所と言えるのではないか。