メディウムという根拠に頼らずにフィクションについて考えなくてはならないのだろう。
●近代芸術はその基盤としてメディウムスペシフィックという概念をもつ。メディウムの自己言及と自己批判、自律的境界画定は、絵画に限らず、彫刻、小説、映画、写真などを貫いて、作品の成立する根拠として作用した。勿論、メディウムスペシフィックへの批判は常にあるのだが、「批判」が可能であったのは基盤としてメディウムスペシフィックが強く機能していたからだろう。
(クラウスによるヴィデオの鏡像性に関する議論にしても、リピット水田による無メディウムの無媒介性にしても、メディウムの統一性という虚構に対して――イメージの生成過程への注目による――批判的な自己差異化の運動が称揚されるが、それは「メディウムの統一性という虚構」が既に成立していることが前提とされているように思われる。)
しかしそれ(メディウムを根拠とする統一性、統合性)は現在では機能していないように思われる。「絵画は絵画である」という同語反復が(この同語反復のなかには歴史が巻き込まれている)、異なる要素、異なる原理、異なる感覚、異なるリズムの集合体に「一つの作品」という統合を与えていた。モダニズム的な原理を共有しない「フラットベッド型絵画平面」的作品においても、「一つの平面(平台)」という基底材の物質的連続性が「作品の統合」を支えていた(パネルから物が飛び出していようが、紐で吊られていようが、つながってはいる、というような)。だがそれはもう無理だ。では、様々な異なる要素を「作品」として統合するものはなにになるのか。
リレーショナルアートやプロジェクト型の作品は、「統合」などはじめから無理だというところから出発している。作品は、実際の社会的関係性の、「アートという制度による(一時的)フレーム化(可視化)」であり、あるいは、進行するプロジェクトの経過報告集である、と。個々の作品にはそれを統合する力はないので、社会のなかに実際に(すでに前提とされて)ある「アートという制度」がそれに文脈を与え、外からフレームを与える。「アートという制度」は現実社会の姿を映し出す一つのレンズであり、個々の作品はそのレンズに一時映し出されて消える一つの像のようなものだ、といえる。あるいは、決して一つの像には統合されない(全体が示されない)プロジェクトそれ自身と、蓄積しつづけるアーカイブが不可視の(潜在的)作品となる。
(これに対するエリー・デューリングなどによる批判はここでは繰り返さない。)
メディウムの自律的自己境界確定、あるいはたんなる物質的連続性。これらのものが「統合」の原理として成立しないとすれば、作品は「何によって」統合されるのか。朝カルの西川アサキ・保坂和志のレクチャーでトノーニの統合情報理論の話を聞きながら、そのようなことを考えていた。情報の統合の度合いを、複数の要素(ノード)間の同期の度合いとして数学的に計算可能である。つまり、実験し、測定し、検証してみることができる。この時、諸要素がまったく同期していなくても、逆に、あまりに同期し過ぎていても、統合の度合いは低くなる。互いに密過ぎない関係を持ちつつも、別々のリズムを刻む時に、統合の度合いは高くなる。
さし当たって「脳」を一つの自律的な単位と仮定する。脳は様々な機能を担う部位に分割されるし、それぞれに異なる計算が同時並立的に、異なるリズムをもって行われている。しかし、にもかかわらず何故、脳のなかに「わたし」は一人しかいないのか。あるいは、何故ずっと安定して一人なのか。統合情報理論は、この事実をある程度は説明し得る。あるいは、脳以上に多様で複雑な無数の演算が行われているはずの「一つのジャングル」に、一つの「わたし(意識)」という統合が発生しないのは何故なのか、も。
(そもそも、ある木々の広がりの領域を「一つのジャングル」として境界確定するのは、すでに「一人」という統合に成功している観測者である「わたし」であろう。)
ある作品が、「一つの作品」としての統合を得るには、様々な異なる要素、原理、演算、リズムなどが同時にあり、しかもそれらの間に「ある程度」の(強すぎない)同期的リンクが成立している必要があるようだ、と、まずはいえる。しかしそれは、あくまで、結果として「一つの統合」が既にあるものに対して、その「統合」の根拠を説明するもの(あるいは、統合の有無を判定するもの)であって、その統合が「どのように生まれるのか」、あるいは「その統合を促す力は何か」ということは説明しない。
さらに、ある日、ある時に統合が成立していたとして、次の瞬間にもまたその統合が持続し得るという根拠はどこにあるのか。また、ある特定の時間t1に成立していた統合と、そこから一定の時間経過のあった後のt2において成立している統合との同一性(連続性)は、どのように保証されるのかも分からないが。
「絵画は絵画であるから絵画である」という同語反復(この三つの「絵画」はそれぞれ微妙に意味の次元が異なり、その隙間に、歴史・慣習・それぞれの実践等が巻き込まれている)によって「統一性の虚構」が成立していることが前提としてあるとすれば、それに対する批判的な自己差異化(あるいは他者生成)の運動が称揚されるのは理解できる(というか、近代的な自己批判メディウムスペシフィックには、自己差異化の運動がはじめから含まれているのだが)。しかし、その前提が機能しないとすれば、問いの順番は逆向きになる。(世界という)果てしない自己差異化の連鎖のなかで、統合は、どのように可能なのか、連続性(同一性)は、どのように可能なのか、と。
この問いを、ウィニコット風に書き換えるならば、現実でもなく、全くの絵空事でもない、「遊ぶこと(フィクション)」が可能になる時空を、どのように開き、それを持続することができるのかということになる。