●明日、国際交流基金主催の「科学と文化が消す現実、つくる現実 ―フィクション、制度、技術、身体の21世紀―」というプロジェクトのうちの一つとしての講義をするので、パワーポイントでスライドをつくっているのだが(まだ終わっていないが、あともう少し)、海外の人を相手に、通訳を介して話しをするという状況が、具体的になかなかイメージできない。
https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2016/02-01.html
ぼくがしようとしているのは、「今後もフィクションなんて必要なの?」という話を三つくらいの方向から考えること。一つ目は近代絵画の話。近代芸術に根拠を与えていた原理の一つとしてのメディウムスペシフィックというゲームの規則が、近代絵画においてどのように機能し、そして機能しなくなったのか、という話。
で、二つ目は、根拠が失われてしまったとして、では、メディウムにも、現実の社会制度にも依らないで(形式主義でも現実反映論でもない形で)、「フィクションを立ち上げ、統合する根拠」をたてることが出来るのか、について。ここでは、フィクションが立ち上がるところを、最も素朴な次元からみる。この点を、ウォルトンウィニコット、パースなどを参照しながら考える。これについては、今後、人類学なども参照しつつ、もっと大きな視点から考えてゆく必要があるだろうと思っている。
三つめは、社会的にある程度流通しているフィクションのなかで、フィクションがどう扱われているのか、ということ。メタフィクションのような話ではなく、フィクションのなかで扱われる非世界的なもの(彼岸や異界)の話。彼岸や異界が、現代のテクノロジー的環境のなかで、インターネット、仮想現実、多(他)世界という形であらわれた時に、フィクションはどのような形をとることになるのか。これはアニメが題材になる。
で、それらを通じて、フィクションはなんで必要なのか、フィクションのリアリティというのはどこにあるのか、ということを考えたい。「これだ」という結論はないのだが、こんな方向なのではないか、というのは示したい。
で、受講するのがどんな人たちなのかまったく分かっていない。外国人の大学院生か若手研究者が対象ということなのだが、どのような分野の人が応募してきているのか分からない。例えば、一つ目の話は教科書的な話でもあるので、美術に詳しい人には退屈な復習のようになるだろうけど、そうではない人には案外知られていないと思うので、押さえておきたいのだが、そこをどうすればいいのかとかが分からない。でも、こういう企画は、いろんな分野の人が来ることに意味があるのだろうから、退屈だったらごめんなさいということでいいと思うことにする。