●東京駅のステーションギャラリーでモランディ展を観て、その後、四谷三丁目の国際交流基金で三宅陽一郎さんの講義(ゲームAIについて)を受ける。
●モランディの画集を浪人時代に穴が開くほど観た。モランディの絵は、近代絵画が獲得したものの本質を取り出して、それだけで成立しているような絵だと思う。要素が少ないので、画面で起きていることのほぼすべてを言葉で説明できる。モランディの絵の良さを言葉で言い尽くせる、というのではなくて、絵のあらゆる部分で、ここがどうしてこのようになっているのか(このタッチはなぜこのように曲がっているのか、ここのタッチだけなぜ色が濃いのか、絵の具はなぜこの厚さなのか、など)を機能として説明できるということ。説明出来るからといって、真似ができるとは限らない。つまり、画面のどの部分にも、恣意的なところや適当なところがないことが、とてもわかりやすくわかる、ということ。だから、絵を描き始めたばかりの人にとって、絵画とはどういうものなのかを知るきっかけとして、最適なものだと言えると思う。
一枚の絵は、画面のあらゆる部分が相互に関係してできている。どのタッチも、画面全体のなかの「その位置」にある必然性がある。良い絵はみんなそうだともいえるが、モランディの絵はとてもシンプルな構造なので、それぞれの要素の機能がわかりやすい。ここでも間違えやすいのだが、機能がシンプルに分かるということと「単純である」ということとは違う。機能がわかりやすく、それをほぼ言葉で説明できるにもかかわらず、そのイメージは魔法のように汲み尽くせない。この絵のポイントはここにある、試しにここを指で隠してやると、ほら、とたんに間抜けな絵になるでしょ、とか、あるいは、モランディはオーソドックスな静物の配置からすると「やってはいけない禁じ手」のような配置をしつつ、それをちょっとだけズラすことで、画面に静かに息づくような活気を与える、そのズラしの部分はここだ、とか。そのような指摘ができるという意味で、手品のタネは分かっていると言えるかもしれない。でも、タネが分かっていても効きつづける手品もある。
絵画には構造があり機能があること。つまり、この手品には仕組みがありタネがあること。しかし、タネを知った後にも効きつづける魅惑があり、その魅惑はタネでは説明できないこと。ここに、絵画の秘密がシンプルに示されているように思う。たとえば、セザンヌの絵はとても難しい。これ以上難しくなったら人には理解不能になってしまうかもしれないと思うくらいに難しい。だから、セザンヌの絵はいつまでも見入ってしまうのだし、それについて考えてしまう。でも、モランディはそんなに難しくはない。この絵が「どうやって」成り立っているのかは(ほぼ)分かる。しかし、難しくないということは、退屈であるということとは違う。
なぜ、この線が他と一ミリずれていることが、トーンがここだけわずかに変化していることが、画面全体をこんなにも活気づけるのかは、結局分かっていないということだ。
(モランディの模写ではなく、モランディの「新作」をエミュレートしてみろと言われても、おそらくできないので、タネが分かっているとまで言ってしまうのは傲慢なことなのだろう。あるいは、タネが分かっていても、そのやり方でうまくゆくのはこの人だけだ、ということもあるだろう。イチローのバッティングはイチローの身体によってしか真似できない、みたいな。要するに、「分かっている」とは言っても、大ざっぱに、要約的に、あるいは生成的にではなく振り返る形で、把握しているだけだということだろう。)
●この前やっていた恩地孝四郎展に、ほんの少しだけ油絵の作品が展示されていた。すごく地味だけどすごくセンスのよい絵で(絵の具のつき方に日本近代絵画的なダサいもたつきがない)、モランディを連想したのだった。
東京ステーションギャラリーは、出口を出る瞬間がすばらしい。自動ドアが開いた瞬間に、マイルドな響きとなった駅の雑踏の音にまるで湯気のようにうわっと包まれる。