●『岸辺の旅』は、ベタというか、ペタッとしているというか、今までの黒沢清だったらきっとやらないだろうという要素が結構あって、へえー、これをやるのか、とか思いながら観ていたのだけど、脚本に別の人の手が入っているのか。というか、宇治田隆史という人の書いた脚本があって、それに黒沢清が後から手を入れたという感じなのだろう。
オレだったらこういう展開にはしないけど、でも、これを自分の映画として成立させるにはどうすればいいのか……、というところから、けっこう新鮮な演出のアイデアが出ている感じがする。他人による「ふり」がなければこのアイデアは出なかった、みたいなところも多々あるのではないか。
長編だけに限っていえば、ぼくが黒沢清で一番好きなのは『ニンゲン合格』だけど(短編含めると、『廃校奇譚』と『花子さん』になるが)、前半を観ている時は、あ、これは『ニンゲン合格』を超えたかな、と思っていた(後半でその興奮はやや落ちてしまったけど)。
黒沢清は、九十年代は男臭い映画ばかりつくっていて、女性の役割はあまり大きくなかったのに、いつの間にか「女優の映画」をつくる人になっていて、今では、主演女優によってその映画のキートーンが決まっている映画ばかりになっている。おそらく黒沢清は、俳優を「追い込む」タイプの演出家ではないと思われ、その人の無意識的な部分を増幅させるというか、開放させるような感じなのだと思う。この人のここを突くとこう反応する、みたいな見極めがすごいのではないか。
この傾向は、『ドッペルゲンガー』(03年)の永作博美と『LOFT』(06年)の中谷美紀くらいから顕著になり、『トウキョウソナタ』(08年)の小泉今日子で決定的になって、『贖罪』(12年)ではもう揺るぎない感じになっている。で、脱・男臭い映画の端緒になっているのが『ニンゲン合格』(99年)なのだと思う。ここでの、麻生久美子とりりィのあり様は、それ以前の作品と大きく異なっていたように思う。
『岸辺の旅』でも、例えば深津絵里蒼井優の対決の場面などは、そこで二人が言っていること、台詞の応酬の、その「言葉(台詞)」だけをみると、夫の浮気相手と妻との対決場面としていかにも紋切り型で、大して面白い場面になるとは思えないのだけど、実際には、この二人のクローズアップの切り返しがすごいことになっている。顔を順番に並べて二つ見せているだけといえば、だけなのだけど。
(映画全体としても、深津絵里の「顔の造形」をすごく良く生かした演出をしていると思うし、あの、なんとも中途半端な「髪の長さ」の表現力といったら、と思った。それに対して、浅野忠信の無表情---無表情というのは正確ではないか、猫のような捉えどころの無さ---が生きるというものあるし。)