●しつこく、もうちょっと「新しさについて」(ボリス・グロイス)について。昨日、一昨日の日記ではあまり触れなかったけど、このテキストでは一つ重要な指摘がされていて、それは現代のアートが知覚できないものを扱い、提示しているということ。ありふれた物と区別のつかない物の、ありふれた物との違いが問題になっている(差異なき差異)。だから必然的に文脈依存性が高くなる、と。
たとえば、ありふれた日用品のように見えるけど、実はまったく異なる素材によってつくられているという作品があった時、「実はこれは○○でつくられています」というキャプションがなければ、その面白さはわからない。逆に、それが本当にありふれた日用品であったとしても、「実は○○でつくられています」というキャプションがついてさえいれば、(展示作品をその場で解体して組成を調べることは禁じられているので)同様の効果を発揮することになる。つまり、知覚に与えられるものだけでなく、言語によるナラティブの効果や、美術館という場における規則や習慣などの効果が作品に付与される。美術館という場が、その内部の出来事をシミュレーション化する(フィクション化する)機能をもつからこそ、美術館の中から「眺め」られる現実は、現実のなかで出会う現実とは異なる効果を生む。このシミュレーション化の機能は、(歴史的、政治的な差異などの)「知覚できない差異」こそを取り扱う現代のアートには不可欠である、と。
この点についてはある程度は納得できる。キャンバスに絵の具で描かれた絵なら、どこへ持ち運ぼうとも「同じ絵」だといえるが、知覚できるものだけでなく、それが置かれる空間にまつわる様々な条件、それが展示されている時期の社会的な状況、それらにまつわる様々なナラティブなどが、複雑に絡み合って成立する作品の場合、それら雑多な要素間のか細いつながりや重なりを維持するためには、美術館というシミュレーション化された場(あらかじめ設定された強いフレーム)が必要となる。雑多な諸要素を統合する力、あるいは諸要素を串刺しにして一つの作品を成立させる横断性の力を保証するものとして、美術館という強い制度が機能する。
ただ、とはいえ、作品の組成が複雑になればなるほど、美術館という制度や、アートという文脈への依存度が高くなるということに対して、疑問というか、警戒心のようなものが惹起されるのも事実だ。横断的であろうとするあまり、逆に特定の文脈への依存度が高くなってしまうというのは本末転倒のようにも思われる。だけど、グロイスにしてみれば、美術館という制度、それが開くアートというアリーナそのものこそが、西洋文化が作り上げて維持してきた偉大なものであって、傑作だとか駄作だとか言われる個々の作品は、制度を前提とすることで生まれる効果の善し悪しなのだということかもしない。
(美術館=アートとは、固定的で単層的な文脈を強いる制度なのではなく、文脈を書き換えることがその文脈に参入する条件であるような多数の文脈の束とその抗争としての制度であり、というか、それら諸文脈を束ねることで抗争を可能にする場=メタ文脈としての制度であり、美術館という、収蔵庫でも展示(政治)空間でも教会でもあるような制度こそが「文脈の書き換え可能性」---それが「新しさ」を生産する---を下支えするのだ、と、グロイスは言いたいのだと思うし、その点は同意してもいいと思う。多数の収蔵品が世界の潜在性を支え、それが顕在化するための現実的で政治的な空間として、有限の狭さをもつ展示室があり、そこで顕在化された世界の配置を、現実のひな形として現実の側へと投射する宗教的、聖的な権威があるのが、美術館という制度だ、と。)
●ぼくとしては、美術館という制度を否定する気はないが、それを唯一の条件とする気もない。それは世界にいくつもある体制の一つであり、いくつもあるフィクションを可能にする制度の一つだから、時にその内にあることもあるし、その外にあることもあるだろう。複数の体制の重なり合いによって別の場が立ち上がることもある。あらゆる体制の外に出ることはできないし、その必要もないと思うけど、一つの体制に従順である必要もないはず。
(ぼくとしては---それはとても困難なことだけど---場の効果として作品があるというのではなく、作品の効果として場が生じるということを考えたい。どんな物もどんな状態も、環境に依存して成立している。しかし、環境とは世界そのものであり、場とは構成されたものだ。すでに構成されたものとしての場のなかに作品を置くのではなくて、作品によって、環境から場が再構成されるような作品について考えたい。場=制度の効果が「新しさ」を生むのではなく、「新しさ」が場を再編成するような。そのような「新しさ」をフィクションと呼べないだろうか。)