●考えたのだが、アニメ版『思い出のマーニー』には、東京から屋敷に引っ越してきたメガネの女の子(サヤカ)が登場し、主人公のアンナと出会って仲良くなるのだけど、このサヤカが、アンナとマーニーとの体験(経験)にはまったく介入していないということが、とても重要なのではないか。アンナとマーニーとの経験は完全に閉ざされていて、それはアンナだけのものだ。しかし、サヤカはその経験そのものに介入することなく、(日記の存在を示すことで)その経験に別の方向から(あくまで「外」から)光を当てる。アンナとサヤカとを結びつけたのは間違いなくマーニーという存在だが、二人は、マーニーについての共有された経験をもつわけではない。
アンナにはアンナだけのマーニーとの経験があり、そしておそらく、サヤカにもまた、日記の発見を通じて生じた、サヤカだけのマーニーとの秘められた関係があり、経験がある。これらはそれぞれ閉ざされているが、このそれぞれに閉ざされた、秘められたものこそが、アンナとサヤカとを出会わせ、関係づける。
(マーニーと間違えられてサヤカに呼び止められたアンナがサヤカの部屋へ入って行く場面で、サヤカの部屋のベッドなどの配置が、マーニーの部屋と同じになっていることに観客は驚く。しかしこの部屋の配置は、あくまでアンナの経験にとってのマーニーの部屋の配置であり、観客がアンナの経験と共にあるからこそ、ここにマーニーの徴をみて、サヤカという存在をマーニーと重ねる。しかし、サヤカにとってはマーニーとの別の物語があり経験があり、それによってアンナとマーニーとを重ね合わせ、アンナをマーニーだと思い込んで声をかける。日記は、サヤカにとってのマーニー経験のための物質的媒介ではあるが、経験そのものではない。)
もう一人、屋敷の絵を描くヒサコという女性もいて、彼女もまた彼女として閉ざされたマーニーとの経験をもつ。そして、彼女が語るマーニーについての物語は、アンナとマーニー、サヤカとマーニーという、それぞれの内に閉ざされた経験に、その外側から別の光を当てる。経験そのものは秘められていて共有されないが、それは様々なリンクをつくり、そのリンクのための核となる。
(追記。だからここで共感とは、「あなたのその気持ち、わたしにも分かる」というものではなくて、「あなたのなかにも、わたしのなかにも、共有されない秘められたものが確かにある」という形の共感であり、『思い出のマーニー』はそのような作品であろう。そして秘められたその何かが、特別にユニークなものである必要はない。)