●悟りを開いた立派な高僧がいて、その高僧を目指して多くの修行僧が日々厳しい修行を行っている。そのような場で生まれるのは、悟りを得られるごく少数の者と、多数の高僧のエピゴーネンたち、そしてそのシステムそのものから零れ落ちる人たちであろう。そしてそのエピゴーネンたちは、悟りとは何の関係もない権力関係と愛憎関係を、蜘蛛が蜘蛛の巣をつくるようにつくりだす。おそらく、人類が繰り返しやってきたのはそういうことで、そして、それは決して変わることはないのだろう。しかし、もし仮に、高僧の悟りの状態をコピーして、すべての僧たちに平等に分配できるようなテクノロジーが実現するとしたら、この状態に何かしらの変化が期待できるのではないか。
(人類が、獲得した知をその場限りにせず、共有し、伝承し、蓄積し、体系化し、精緻化することができたのは、このような「高僧とエピゴーネン」システムを通じてだと思われる。悟りを得るためのプロセスや技術、その試行錯誤は、「高僧とエピゴーネン」システムがなければ伝承されず、その都度での個人の天才のみに依存することになってしまう。だから、このシステムを否定しているわけではない。ただ、「悟り」を目指す時にそれ以外の道は何かないのか!、と常に強く思っていて、だからぼくは、そう叫びながら零れ落ちてゆく人たちの一人ということか。)
セザンヌの絵をみることは簡単なことではなく、ある程度の訓練やセンスが必要となるが、ヘッドマウントディスプレイを装着してヴァーチャル空間に入ってゆくことはもっとずっと容易にできる。この違いに、20世紀と21世紀のモードの違いがあらわれているように思う。
フーコーによる、規律訓練型権力から環境管理型権力への変化というのはよく参照されることだ。規律訓練型権力と対応して、19世紀終わりから20世紀前半くらいまでの前衛芸術は、人間という概念の自明性の喪失に伴い、人間という存在を書き換え、拡張してゆこうとする試みでもあったと思う。それは、規律訓練型権力(学校、軍隊、工場など)が強いる「適応的な生産性のある人間の構成」に対するオルタナティブとしての「別の構成」というだけでなく、より拡張されたものとして、人間を(自分自身を)新たな可能性に向けて構成し直すことを目指す。でもそれは、規律訓練型権力が強いるものとは「別の構成」であったとしても、それもまた独自の規律訓練(自己批判と鍛錬)を通じて見いだされる。社会や経済の解体と再構築を目指した共産主義も、感覚の解体と再構築を目指した前衛芸術も、自分自身を自分自身によって厳しく解析し解体し(自己批判し)、人工的に構築し直すことを目指して精進するところは重なっている。この感じは、修行を通じて自我を解体して悟りへと至ろうとする、求道的な修行僧のようなイメージと重なる。
でも、人間はあまり変わらなかった。あるいは、自己の内的な改革はうまくいかないということが分かった。これが、20世紀の共産主義や前衛の実験によって得られた苦い認識ではないか。自己改革が可能なのは、ごく一部の優れた人に限られている。では、人間は総体としては変わりようがないのか。でも、内的な改革はできないとしても、外的な作用(環境を変えること)によって変わることはでききるのではないか。これが、人間が人間自身に関する知の増加(脳、ゲノム、進化の探求、あるいは人間の行動に関する膨大なデータの蓄積とその解析)によって得た、新たな認識なのではないか。でも、それはそのまま、環境管理型権力とも結びつくのだが。
環境管理型の生政治に対してフーコーは、倫理的な個としての抵抗を考えていた。最近の本は読んでいないけど、アンチゴネーを好むジシェクなども同じ路線だと思う。でも、それだと、環境管理型権力に対する規律訓練型の抵抗ということになるのではないか。セザンヌが、規律訓練型権力に対する規律訓練型の抵抗(というより、解放)の実践を試みたのと同様に、環境管理型権力に対しては、環境管理型の解放を模索した方がいいのではないか。
(ぼく個人としては、修行による感覚の拡張、というものをまだ信じている。20世紀的前衛の問題は形を変えて生きていると思うのは、科学と資本とが圧倒的な力をもつとしても、心身問題、あるいはクオリア問題は未だ解決されていないし、そこには「自分の死」という問題がすごく密接に絡んでくるから。ただそれが、どのように形を変えているのかを考える必要がある。)