●お知らせ。勁草書房のウェブサイト「けいそうビブリオフィル」に「虚構世界はなぜ必要か?」の連載第二回目(「たんなるリアル」を開く技術)がアップされています。
http://keisobiblio.com/
●ここのところ、ちょこちょこと森崎東を観ている。『男はつらいよ フーテンの寅』をDVDで観た。森崎東が監督した唯一の「男はつらいよ」で、シリーズ三作目。48作も続いたシリーズの三作目というのは、けっこう重要だと思うのだけど、シリーズ中では異端の作品だと言える。
ここで「寅さん」は、善人というより、いたたまれないくらい痛い人だ。悪い人ではないが、無害な善人ではなく、かなりめんどくさい。ここではまだ若く、十分に生々しい渥美清がいる。
寅さんの考えや策略は、他の人や観客にすべてバレている。そして、寅さんは自分の秘めた思いが周囲にバレバレであることに気付かない。寅さんの善人性は、隠し事がないところにあり、あるいは、仮に隠し事があったとしても周囲の人には読まれてしまっているというところにある。
そして通常、このシリーズで寅さんは常にマドンナにふられる。しかし決して嫌われてはいないし、むしろ慕われている。いい人だけど恋愛の対象ではないと思わるか、あるいは、もう一歩押せばいけそうなのに、相手の事情を察して寅さん自ら身を引く。寅さんはいつも、自分の利益よりも他人の幸せを優先する。それがこのシリーズの基調だ。観客はそのような善人を見て安心する。
だけどこの作品においては、マドンナの新珠三千代は、最後の方ではあきらか寅さんを迷惑だと感じている。迷惑というのは言い過ぎとしても、めんどくさいと思っている。それなのに寅さんの前ではいい顔をする。自分の口から寅さんを拒否する言葉を発する事すら面倒で、人任せにする。
別れの場面で、去って行く寅さんを新珠三千代は見ているが、寅さんは見られていることを知らない。新珠は寅さんを見守っているのではなく、騒ぎを起こすこともなく去ってくれたことに安堵している。だからあえて声をかけることをしない。変にかかわりたくないから。
周囲の人々の言葉から、寅さんはようやく、自分の思い込みが勘違いであることを悟る。その時点で寅さんは、自分と新珠とが「いい仲」になることは不可能だと悟る。その点に関して執着はない。寅さんは悲しみをぐっと噛み締める。しかし、自分の思いを、自分の口を通して新珠に伝えたいと言う思いは譲歩しない。「さようなら」という置手紙をしたのに、のこのこ戻ってくる。それは、先回りして自ら身を引く、肝心なことに関してはシャイである、いろいろ察して黙って去って行く「みんなから好まれる寅さん」とははっきり異なって、もっとギラギラしているし、めんどくさい。新珠からどう思われようと、自分の気持ちは自分で伝えたいのだ。この点にはあくまで執着する。ここが、山田洋次の寅さんとは違うように思う。
だが残酷なことに、この映画では寅さんの言葉は新珠には決して伝わらない。寅さんが新珠に向けて繰り返し発するメッセージを聞くことになるのは、旅館の従業員たちであったり、「とらや」の人々であって、新珠にその言葉は届かない。気持ちに届かないのではなく、物理的に届かない。ここには、いい人だけど恋愛対象ではない寅さんではなく、決定的に混じわることの出来ない異質な存在としての寅さんがいる。新珠三千代は寅さんの声さえ届かない別の世界(別の階級)に住んでいるが、寅さんだけがそれに気づかない。
(宛先の間違ったメッセージを受け取る「旅館の従業員」や「とらや」の人たちがもつ、「ああ、もうこの人は(めんどくさい)……」という苦い感情を、観客ももつだろう。そしてその痛々しさを呑み込む。)
空気を読んで身を引く「みんなから好かれる寅さん」ではなく、徹底して空気に気づかない痛くて鬱陶しい寅さんがいる。そのような寅さんを、心底うんざりしながらも、受け入れている唯一の場が、家族と言える「とらや」の面々だ。寅さんの「痛さ」を、「あのバカ」と罵倒しつつ、そのような「バカ」である寅さんを愛しているだろう。
しかし寅さんは、自分の存在を受け入れてくれる家族の元には帰らない。気持ちとしては寅さんを受け入れているとしても、行動様式として、「バカ」である寅さんのそれと、地域に根差して地道に生産活動をしている「とらや」の人々とは相容れない。その様は、映画の前半に描かれている。「とらや」は寅さんの住める場所ではない。
要するに、寅さんにはどこにも居場所がない。だから旅に出るしかない。この映画には、元々テキヤをやっていて、体を壊し、手足がしびれて言葉を発するのもままならない状態になった老人として、花澤徳衛が出てくる。花澤は、金持ちの妾になってでも自分を養おうとする一人娘に、好きな人との駆け落ちを勧め、孤独になる。その、独りぼっちになった花澤の前で、寅さんは正式に仁義を切るのだ。つまり、この「よいよい」の孤独な老人、花澤徳衛こそが寅さんの将来の姿であり、寅さんもそのことを知っている(だから寅さんには、花澤の言葉にならない呻きを、言葉に翻訳できるのだ)。
でもさすがに、そこまで描いてしまうと、国民的な娯楽映画ではなくなってしまう。だからシリーズ中で異端の作だ。
●この映画は1970年に公開された。驚くべきことに、この時点で既に、野村昭子は、「渡鬼」のあの野村昭子そのものとして完成されているのだった。この一貫性とブレのなさは笠智衆に匹敵するのではないか。