●いろいろあって、今月はあまり本を読めなかったのだが、そうこうしているうちに『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』(ケンダル・ウォルトン)が発売された。大きい、分厚い、そして二段組み。
ウォルトンの「フィクションを怖がる」はとても面白いテキストだけど、突っ込みどころも多くて、例えば準-恐怖という概念はやはり成り立たないのではないかとか思ったりするのだけど、この大著ではどうなっているのだろうか。
「フィクションを怖がる」では、緑のスライムのような怪物が襲ってくるホラー映画という例が最初に挙げられるのだけど、それはホラーというよりむしろパニック映画のようなものなのではないか。例えばスピルバーグの『宇宙戦争』みたいなのをホラーとは普通言わないと思う。ホラーは、霊的なものに対する恐怖が基本にあると思うのだけど、ウォルトンの準-恐怖では、身体に危険が迫ってくるというレベルの恐怖しか考えられてなくて、恐怖という感情を捉え損ねている感じもある。危害を加えられるかもしれないということも幽霊に対する恐怖の一部ではあるけど、それがすべてではないように思う。
でも、それはたんに挙げた例が適切ではなかったということで、ウォルトンの考えるフィクションのあり方は基本手にはとても面白い。
フィクションとは、「公的なごっこ的真理」を「道具」として、各人が「個人的なごっこ的真理」をつくり、その世界のなかで行為することだ、と。金髪の人形は、「ここに金髪の少女がいる」というごっこ的真理をあらわしており、それは「公的なごっこ的真理」で、例えばAがその人形を使っておままごとをする時、人形の「公的なごっこ的真理」を道具として利用して、「わたしは母親、人形は娘、二人でこれから食事をする」というような「個人的なごっこ的真理」を成立させている(その世界をごっこ的に信じている)、となる。ここで「個人的なごっこ的真理」は、人形そのものが示す公的な「ごっこ的真理」よりも、大きな広がりをもち、より包括的である、とする。包括的というのは、人形だけでなく、自分自身を虚構のレベルにまで拡張した、双方が虚構として存在できる世界になるということだ。
映画を観るということも同様に、「映画」(の映像や音声)を小道具にして、映画が公的に示すごっこ的真理(ストーリーや世界観など)よりも、より広く、包括的な「個人的なごっこ的真理」のなかで、自分自身の役を演じている (公的なフィクションに沿って、個人的なフィクションを遊んでいる)ことになる。この時、映画を道具とするというのは、人形を道具とするというほどに単純なことではない。観客は、映画が示す世界のなかに没入しているのではなく、映画を利用して、映画より包括的で大きな世界をごっこ的に成立させ、それをごっこ的に信じ、その個人的なごっこ的世界のなかで「観客」という位置を演じていることになるから。没入するのではなく拡張するのだ、というのは、たんに「言い方」の違いだけではない。その時、観客は観客という虚構の位置になり、その位置につくためには、自らで能動的に個人的なごっこ的真理の成立する世界をつくりださなければならないことになるから。
(ここまで書いて、ふと小林耕平の作品を思い出した。小林耕平の作品を前にして、小林耕平と山形育弘が行っていることは、一種のナゾナゾのように投げ出された小林耕平の作品――公的なごっこ的真理――を道具として、そこからより包括的で大きな、個人的、というか二人だから共同的な、ごっこ的真理をつくり出そうとする試みなのではないか。)
●最近買った本。