●お知らせ。8月6日から19日まで、新宿K's cinemaでレイトショー公開される映画『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)のチラシにコメントを書いています。
このチラシはデザインがとてもよくて、この映画はまさにこうだという「感じ」を一枚のビジュアルで的確に表現していると思います。だから、下の画像を見て何か感じるものがある人は、映画を観に行くといいと思います。
下のリンクはトレーラー。
https://www.youtube.com/watch?v=gd1r4sxQLFQ





フレデリック・ワイズマンの『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』をDVDで観た。三時間の映画を、一日一時間くらいずつ、三日かけて観た。こういう見方がいいかどうか分からないが。
ロンドンのナショナル・ギャラリーについてのドキュメンタリー。絵画があり、それを観る観客がいて、それについて語る人たちがいる。閉館時の清掃や展示替えの作業、絵画の修復作業なども映し出されはするが、時間としては短く、基本的に、絵と、それを観る人と、それについて語る人とが延々と映し出される。
語りは、だいたい三種類に分けられる。(1)美術館の運営についての議論、(2)観客に向けた作品解説者の語り。啓蒙的であり、幾分、演劇的、アトラクション的である語り。そして、(3)専門家同士のアカデミックな語り。皆、しゃべることしゃべること。絵画のまわりを、様々な言葉たちが渦を巻くように絡み付く。面白い話もあれば、語っている人そのものが面白い場合もあり、そして、具体性を欠き、いかにも上っ面で胡散臭い、紋切り型や美辞麗句ばかりを並べる人もいる。
ただ、語るのは常に、スタッフであり、専門家であって、観客はまったく語らない。それがこの映画の特徴であるように思われる。観客は絵画の側にいる。絵を観る人もまた絵であるかのように、あるいは、絵を観る人が絵と同化するように、その姿が表情豊かに捉えら、モンタージュされる。観客が絵を観る様、観客が絵について語る人の話を聞く様は、ただカメラによって描写されるだけで、観客自身が自ら何かを発言する場面はない。
(憶えている限りでの唯一の例外は、美術館で行われているクロッキー教室のような場で、男性のヌードモデルを描く年老いた男性が、露わになった男性器を描くことへの抵抗と意味とを語り、若い時にこれを経験していたら何かが変わったかもしれないと語る場面だ。ただ彼は、スタッフではなく生徒ではあるが、絵を描く人であって、絵を観る人ではなかった。)
語られる話の内容として最も興味深かったのは、修復家の語りだった。おそらく、これから修復を学ぼうとする学生か研修生のような人たちの前で、修復の専門家が、自分が今修復中である絵ついて、様々な具体例とともに語っていた。そして次のことを付け加える。あらゆる修復の作業は、塗り替えられたワニスの上から行われる。ワニスを洗い流せば、すべての修復部分は消えてしまう。修復は、現時点でのその絵に対する解釈であり、それは、未来に解釈の変更があることに対して開かれていなければならない、と。
興味深い話が多々あるとはいえ、饒舌に、そしてあまりに流暢に語る人の話ばかりがつづくため、言葉というものに対する胸焼けのような感情が訪れる。映画も終わりに近づいた頃、美術館で額の修復をする職人が観客の前で語る場面がある。彼は、明らかに人前で語ることに慣れていない様子で、とてもたどたどしく語る。彼は、この映画のさまざまな「語る人」たちのなかで、おそらく唯一「言葉」を生業にしていない人であろう。例えば、絵画の修復家もまた、言葉というより物としての絵に対している人であるが、しかし同時に、修復に関するアカデミックな研究者であり、教育者でもあり、つまり言葉の人でもあるようにみえた。
映画は、二人のダンサーが、二枚のティツィアーノの絵の前で踊る場面で終る。