●noteで「鼻血を垂らす幽霊・現在と想起の抗争 ポン・ジュノ母なる証明』論(3)」と「半立体的ドローイング(紙を破くことによる) 2016年」を公開しています。『母なる証明』論はこれで完結です。
https://note.mu/furuyatoshihiro
●『フィクションとは何か』でケンダル・ウォルトンは「想像活動のオブジェクト」というものを考える。たとえば、ただ「赤ちゃんがいる」と想像するのではなく、この「人形」を「赤ちゃん」だと想像する。この時、想像活動のオブジェクトとしての人形は、想像上の「赤ちゃん」に実体を与える。中味のつまった、抱き上げることも蹴飛ばすこともできる、これが「想像上の赤ちゃん」だと言える「何か」が、そこにあることになる。何かを想像する時、それを意図的な内省や熟慮とともに想像するよりも、自動的に「想像してしまう」時の方が「いきいき」と想像できる。想像活動のオブジェクトは、それが無い時に比べてよりいきいきとした想像を生じさせやすい、と。たとえば演劇というのは、想像活動のオブジェクトそのものであろう。目の前にいる俳優が、「これが想像上のマクベスだ」と言える「何か」として実在し、言葉を発する。
ウォルトンは、15世紀につくられたキリスト教の手引書を例に挙げる。それには、聖書に書かれたことをしっかりと記憶しておくために、自分がよく知っている手近な場所を、書かれた出来事のあった場所として見立て、自分がよく知っている人物を、聖書の登場人物に見立て、それが充分に出来たら、自分の部屋へいってたった一人で物語を最初から想像しなさいと書かれている。手近な場所や人物が想像活動のオブジェクトとなる。だがここで、《事物が目の前にある状態で想像せよとは言っていない》ことに注意せよ、とウォルトンは書く。
そして、最も重要な想像活動のオブジェクトの一つとして、「想像する者自身」があるとする。
ウォルトンは、あらゆる想像活動は少なくとも部分的には自分自身に関するものだとし、それを自己想像と呼ぶ。「セントラルパークに象がいる」と想像する時、人は、セントラルパークに象がいるのを自分が見ている、あるいは知っている、という想像をするはずだ、と。「わたしは象を見ている」ではなく、たんに「あれは象だ」と考える時も、想像の上で、その象をわたしに関係づけているのだ、と。ここで、自分が象を見ているとわたしが想像するとき、その「自分」とは「裸のデカルト的私」とでも言うべきもので、明確にこのわたし(古谷利裕)である必要はない、と。
自分が何かをしている「ところ」を想像することと、自分が何かをしている「ということ」を想像することは異なる。前者は内的に経験を想像しているが、後者は外的に状態(出来事)を想像している。たとえば、わたしが大リーグの試合に出てホームランを打つ「ということ」を想像する時、その状態(事実)を外から把握しているのであって、ボールがバットに当たる感触や、歓声のなかでダイヤモンドをまわる経験を想像している必要はない。しかしウォルトンは、後者は前者を含んでいるとする。わたしがホームランを打つ「ということ」を想像している時、そこには、わたしがホームランを打つ「ところ」(その内的経験)の想像が含まれているのだ、と。故に後者もまた自己想像である、と。
あるいは、「わたしは十三世紀の船乗りの子孫だ」と想像することや、「自分が珍しい血液型だ」と想像することは、内側から経験として想像することはできないが、これもまた自己想像である、と。
たとえば、わたしは、わたしがナポレオンであるとしたら、と想像することができるし、ナポレオンであるわたしがサイを見る、ということを想像することもできる。わたしが正気であるとすれば、「わたしはナポレオンだ」と信じることは困難だ。しかし、想像することはできる。それはいったいどういうことなのか。それは、わたしとナポレオンとを同一化することとは違うようだ。「わたしがナポレオンである」という想像と、「ナポレオンがわたしである」という想像とは対称的ではないから。どういうことか。
自分がナポレオンであるとわたしが想像する時、わたしは、ナポレオンである自分自身が18から19世紀に生きて、ウォータールー(ワーテルロー)で敗北する(あるいは、もし敗北しなかったとしたら)、と想像するが、ナポレオンがわたしであると想像する時、私は、ナポレオンである自分自身が、21世紀に生きて、今パソコンの前にいると想像する。この時、前者は、わたしが、ナポレオンである自分自身を内側から想像していることになるが、後者の場合、ナポレオンである経験を内的に想像しているのではないし、自己想像とも言えない。
前者の場合、ウォータールー(ワーテルロー)で敗戦したりしなかったりするのは、実は「わたし」であってナポレオンではない、ということもできる。それはたんに、ナポレオンの立場に立った「わたし」であるにすぎない、と。しかし後者の場合、ナポレオンであるわたしは、ナポレオンが行ったり経験したりしたことをまったく想像しなくても、それらを切り離してなお、想像上のナポレオンであり得る。わたしは、自分がナポレオンであり、月にいる、と想像することもできる。
わたしは、自分がナポレオンであり、サイを見ている、と想像する、ということはどういうことなのか。ウォルトンは次のように考える。わたしは、自分自身がサイを見ている経験を想像する。そして、この一人称の(内的な)自己想像を手段として、ナポレオンがサイを見ていると想像する。自分自身が経験しているところを想像することによって、ナポレオンが経験するとわたしが想像する事柄を、自分に対して絵解きして説明するのだ、と。
ここでわたしは、自分自身とナポレオンとを両方想像していて、二つの想像活動は個別でありつつ、重要な仕方で繋がっていることになる。ここでおそらく、「自分がナポレオンであるとわたしが想像する」と、「ナポレオンがわたしであると想像する」の両者が同時に作用すると思われる。
ウォルトンはここで、固有名や「わたし」をめぐる迷宮的な問いに入り込まない。ナポレオンはあくまで、客観的に指示可能である歴史上の実在する対象として扱われる。ここで問題にされているのは、「自分についての想像」が、他人についての洞察を得ることが目的である場合にさえ重要であるということだ。つまりこれが、想像する者自身が、想像活動のオブジェクトとなるという意味であろう。ナポレオンであるわたしがサイを見ているところを想像するのは、ナポレオンという人物を、実際に行った歴史的事実を知る以上に、多角的に、より深く知るための行為で、そのための想像活動のオブジェクトとして「自分」を使う、ということになる。
《他人を理解するために私の想像力が助けになるのは、自分自身が他人と同じ立場にいると(自分がその人物であると想像するかどうかはともかくとして)私が想像するときなのである。(…)そして、こういう想像を行うとき、私は自分自身についても学んでいるのである。》
これはたんに、「他人の立場に立って考えましょう」ということではない。想像活動において、他人について考えている時でも、「自分についての一人称的想像」を媒介とする(自分を想像活動のオブジェクトとする)しかなく、同時に、他人について考えるという行為をする時、それを通じて、自分自身についても学んでいることになる、ということだ(「他人が経験するとわたしが想像する事柄」を、「自分に対して絵解きして説明する」こと、を通じて、わたしは「わたしについて学ぶ」)。
これが閉ざされた内的循環にならないために、わたしの外部環境として、想像活動の「オブジェクト」や「小道具」が効いているということだろう。
《私たちはこうした想像活動によって、自分の気持ちを発見したり、自分の気持ちを受け入れることを学んだり、逆に自分の気持ちを吹っ切ったり、およそ想像活動に助けられて行うことが何であれ、そういったすべてを行っているのだ。》
おそらくこれが、ウォルトンの考える「フィクション」の基底的な作用と言える。こうみてくるとほとんど精神分析みたいで、ほとんどウィニコットみたいだ。