●DVDで『恐怖分子』を観た。これを観たのは何年ぶりだろう。去年、デジタルリマスター版が上映されたのは知っていたし、少し前からツタヤに置いてあるのも知っていた。実際、何回か借りたこともあったのだけど、なかなか手が出なくて観ないまま返したりしていた。簡単に手を出せない程(ある程度の覚悟がないと観直せないくらい)、この映画はぼくにとって重要だ。
ウィキペディアを見ると日本公開が96年になっているから、ぼくにとってのエドワード・ヤン体験は『牯嶺街少年殺人事件』の方が先だったのだろうか。九十年代のはじめくらいに、まだ学生の頃に観たという記憶があるのだけど、それは『牯嶺街…』の方だったのか。最初に『恐怖分子』を観てガツンとやられたという感じが強く残っているのだが、偽の記憶なのか、あるいは映画祭のような特別な上映で観たのだったか。
エドワード・ヤンは、『恐怖分子』『牯嶺街少年殺人事件』『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』『ヤンヤン 夏の思い出』を観ているのだが、ぼくにとっては『恐怖分子』と『牯嶺街…』とが圧倒的で、『恋愛時代』と『カップルズ』はやや納得できない感じで、『ヤンヤン』は前の二作に比べれば随分復活した感じだけどエドワード・ヤンのマックスではないのではないか、という感想になる。
90年代の映画では群像劇という形式が流行っていて、その代表格が、エドワード・ヤンであり、ロバート・アルトマンアルノー・デプレシャンといったところだろうか(PTAの『マグノリア』が99年だ)。でも、『恐怖分子』を改めて観て、それが間違っていたのではないかという気になった。特に深い根拠があるわけではない当てずっぽうの発言でしかないのだが、『恋愛時代』や『カップルズ』がイマイチなのは(いや、十分に素晴らしいのだけど『恐怖分子』などと比べると、ということだ)、群像劇にしちゃってるからなのではないか、と。『恐怖分子』は、群像劇的なものとは根本的に違うように思われるし、そこが新しかったし、すごかったのではないか。
群像劇というのは、人間同士の、あるいはエピソード間の、複雑な、そして多分に偶発的な関係性の絡み合いが重要になるのだけど、どうしても、それらの複雑な諸関係を外から(高みから)操作している「作者(外部観測者)の手つき」のようなものが感じられてしまう。
『恐怖分子』でも、カメラマンの系列、不良少女の系列、医者(研究者?)と小説家の夫婦の系列という、本来接点のないそれぞれ個別の三つ系列が、パトカーのサイレンの音と警察官の系列の媒介によって偶発的に結びつき、それによって事件が起きてしまうという構成になっている。でも、『恐怖分子』が新鮮だったのは、その関係性が物語的でも因果的でもなく、かといって、ビジュアル優先という感じでもないところだった。
『恐怖分子』という映画では、一個一個のユニットの自律性が高くて、それらユニット間に関係が生じるというより、自律性の高いユニットを構成する要素のなかのある一つが、別のユニットにもあって、たまたま共通する要素と、あくまで部分的な共鳴を起こすことで、あたかも関係があるかのように見えてしまう、という事が起っているように思われる。この「ユニット」というのは、エピソードでもあり、人物でもあり、シーンでもあり、あるカットの空間を構成している事物の配置でもあり、というように、様々なスケールで成立している。起こっている事柄は、様々なレベルの孤立したユニット間の部分的共鳴でしかないのだけど、それを引いてみると、あたかも継起的で因果的な出来事の連鎖や、複数の系列の関係の絡み合いがあるかのようにみえてしまう、ということだと思う。
あるのは、運動を欠き静止したユニット間の部分的共鳴なのに、あたかもそこに、継起的で因果的な「運動」や「出来事」があるかのような錯覚を生む。『恐怖分子』の新鮮さは、その動かなさや関係の無さにあり、しかし、その、静止して孤立したものたちをいくつか並べてみると、なぜか「事件が起こった」かのような図柄が浮かび上がってしまう、ということころにあったと思う。あらゆるユニットは常にそこにあり、動かずにそうありつづける。出来事も展開もない。しかしそれらを並べると、それらを貫き動いてゆくものが幽霊のように浮かび上がる。例えば、カット1のなかにあるパトカーのサイレンの音と、カット2のなかにあるサイレンの音、カット3のサイレンの音は、それぞれ個別に、常に「そこ」に、そのユニットの構成要素としてありつづけるのに、カットを三つ並べると、三つの孤立したユニットの間をサイレン音が貫いて動いてゆくように感じられる。このような、運動の無さの感覚と運動のイリュージョンとが重なってあるところに、『恐怖分子』のおもしろさがあった。
『牯嶺街少年殺人事件』でも、「少年が少女を刺し殺す」という事件が起こってしまうに至る過程を因果的に精密に追ってゆくということが行われているのではなく、必然的に「少年が少女を刺し殺す」という事柄を含む世界の「環境のまるごと」を、時間を含んだ四次元時空ホログラフのように作り上げてしまおうという意思によってつくられているように思われる。だから、物語も事件も本当はない。四次元時空ホログラフには時間が含まれているので、あらゆる瞬間は既にそこにあり、そのままであり続けるから、運動や展開というものが起らない(存在しない)。少年が少女を刺し殺す、その環境のまるごとが、静止したままずっとそこにある。りヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のあの屋敷のなかのような場所で、環境と時間とが保存されている、という感じ。『牯嶺街…』という映画が圧倒的なのは、そのようなものとしてあるからではないか。