●高校の時、頭が禿げて、四角くてごつい岩のような顔をした男性教師がいた。五十歳ちょっと手前だけど年齢より老けて見える。顔は怖いけど、軽口や冗談の多い、どちらかというとくだけた授業をする人だった。でもそれは、地としてそういう人だというより、高校教師という職業上で必要な、サービスであり技術としてそうしているという感じだったのだと思う。根っから明るいという感じではなかった、のかもしれない。
その人が、学内で配布される印刷物に何か文章を書いた。その文章の方は何も憶えていないが、文章に添えられた筆者の近況のようなところに「暇さえあれば寺巡りをしている」と、その人は書いた。特に何という事もない文だと思うのだが、それが何故かぼくと同じクラスの何人かの生徒たちのツボにはまって、ほんの短い間だが、流行りのネタのようになった。高校生から見れば、暇さえあれば寺巡りをしていることがそもそもちょっと笑える感じだし、何よりも、プロフィール欄に、そのような調子でそのような文を載せる感じが妙に可笑しかったのだと思う。寺巡りという行為と、その教師の風貌があまりにマッチしているということもあっただろう。軽くバカにしてからかうという調子だけど、決して侮蔑しているのではなく、ちょっと変わったキャラに対する親しみの表現に近い感じとしてのネタだったと思う。
それである日、その教師の授業の時に誰かが、そのネタで教師をからかった。ベテランの教師であり、自分の禿げた頭をネタにして笑いをとるような人でもあって、普段なら、生徒からからかわれたくらいで怒るという感じでもなかったし、それを言った生徒も、当然何かしらの笑えるリアションで返してくれるものと期待していたはずだった。だけど、この寺巡りの件に関しては違った。その時その人は、「憮然とした」としか言えないような表情をして、そのまましばらく沈黙した。怒りを露わにするというのではなく、ただ黙りこんで、憮然とした顔をしていた。その顔がすごく印象に残っている。たんに不機嫌ということでもなく、もっと深くて暗い、あるいは、硬くて脆いものを感じる表情で固まってしまった。人には、触れてはいけない何かがあるのかもしれないと、その時ぼくははじめて感じたのかもしれない。そういう顔をしていた。
これは勝手な想像にすぎないが、あの人は、本当は高校生や高校生に向かって授業をすることが嫌いだったのではないか。その嫌いなことを職業として生きるため、それをなんとかやり過ごすために、ひょうひょうとした軽い調子を技術として身に着けたのではないだろうか。しかしそれが、ほんのちょっとしたきっかけで、綻びが露呈してしまう、何かが切れてしまうということがあるのではないか。それが「寺巡り」の件がきっかけだった理由は、他人の内面のあり様は分からないので分からない。たんに、たまたまということだったのかもしれない。
ぼくの記憶では、その次の年くらいに、その人は五十歳を手前にして教師を辞めた。寺巡りの件と、早い退職の間に関係があるかどうかは分からない。というか、常識的に考えれば関係があるとは思えない。「寺巡り」事件の時は、たんに虫の居所が悪かったり体調が悪かったりして、普段通りのパフォーマンスが発揮出来なかっただけだと考えるのが普通だ。でも、その話を聞いた時にすぐにあの表情が(罪悪感とともに)思い浮かんだし、そしてそのことを今でも憶えている。あの時あの人は、もうこいつらと一緒にいる仕事には心底耐えられないと感じてしまったのではないか、と。
なぜ今、三十年以上前のこんなことを書くのか。それは、ぼくが、あの時のあの教師と丁度同じくらいの年代になったから。ああ、あの時のあのおっさんと同じくらいの年になったのか、と思い、あの表情を思い出す。そして、自分にもそういうことが起り得るのか、と(ぼくは教師ではないけど)。