●引用、メモ。「第一哲学としての美学:レヴィナスと非人間」(グレアム・ハーマン)より。上妻世海の翻訳による。「代理性(proximity)」について。このプロキシミティっていう概念がとても面白いのだが、プロキシサーバみたいなイメージということでいいのか。《代理性(Proximity)は共有されることを予期しない愛の場合に見られるように互恵性を忘却する》。
https://note.mu/skkzm01/n/nea42da20f603
《言語に関する最も有名なレヴィナスのポイントは「言われたこと」(the said)と「言うこと」(the saying)の間の彼が設けた区別である。一方「言われたこと」は平坦な考えで刻まれた文字通りのメッセージであり、他方で「言うこと」はこの文字通りの表面を超えるのである:それは主張すると同時に言われた内容を撤回する。「言うこと」は「言われたこと」を主張し主題化するけれど、それは「言われたこと」の中で言葉によって生じたものから区別される必要がある意味生成でもって、他者へと「言うこと」を意味するのである。この他者への意味生成は代理性(proximity)の中で生じる。
代理性は全ての他の関係性とはまるで異なっている。代理性は誠実性やilleityの別の呼び名である。言語の文字通りの使用(言い換えれば「言われたこと」)はすぐにそれが意図されるものの現前へと私達の関心を引く一方で、「言うこと」は私達を世界の表面を超えて存在するものとの誠実な関係性へと運んでくれるのである。》
《代理性(Proximity)は共有されることを予期しない愛の場合に見られるように互恵性を忘却する。》
《上記のように、代理性は単なる融合なしの接触ではなく、非対象的な接触なのである。私が他者に魅了されていることは他者が私に魅惑されていることを意味しないのだ;これが事実であるなら、魅力とは分離しており、かつ並行的な誠実性として考えられるべきである。代理性は単に表層に触れるわけでもないのだ:その志向性がどれ程脱理論化されていようとも、接触は表象ではないのである。》
《私は私が見ているものへ融合しないけれど、私は志向性の核の中心で見ているものと並んで存在している。見ているものが恩返しをすることは無いにも関わらず、誠実に、見ているものに魅了されながら。私は現象に対して連続し隣接している。接近における隣接は全き外面性であるが、空間的連続性とは無関係である。誠実性において、私達は融合でもなければ、隣接した無関心でもない何かを持っている。それが代理性(proximity)である。代理性だけが私達に世界の一つの部分と別の部分の間のコミュニケーションの希望を与える。なぜなら代理性だけが離れた所からメッセージをお互いに送り合いながらも、物事が物事自体であることを許すからである。それなしにして、メッセージの移動として言語は不可能であっただろう。》
レヴィナスにとって、コミュニケーションは責任であり、そして責任は私から他者へと一方通行に進む。責任に関して言うことにおいて---それは誰も私と入れ替わることの出来ない義務に晒されている ということを意味しているのだが---私は特殊な存在としてある。このことは代理(substitution)という重要概念を導き出す。そしてレヴィナスはそれこそが、全ての書物の動機付けの概念なのだと主張するのである。私自身のユニークさと代替不可能性で他者へ開かれる時、私は他者であるものへの責任を引き受けることによって、多少私自身を他者であるものへと代理する。レヴィナスにとって、これは真に主体性の基礎なのである:他者への代理を通じて、その人は関係性から抜け出す。》
《不幸なことに、彼は常に「責任」「代理」「illeity」あるいは「誠実性」といった概念を人間主体だけのものと考えていた。彼が自己について話す時、彼は狭い人間的な種類の自己を頭に描いているように思われる:私は---それは一人称として使われる用語である---私は私自身の属性において特殊なのである。そして、この明らかな人間的自己へのフォーカスこそがレヴィナス的不可能性の第一哲学としての倫理という栄光へとドアを開くのである。》
《この苦境において、哲学にとってダイヤモンドと爬虫類を救うことは私達自身において責任である。何故ならレヴィナスは私達人類を救うことに興味を持っていないから。倫理は第一哲学であることができない。何故なら倫理は不正にも、デモクリトスとは少し違った仕方で一人前の人間とロボティックな因果の抵当物の間に世界を分けてしまうからだ。第一哲学は個別的な実体とそれらのお互いに誠実な代替性に関するより一般的な理論である必要がある。何故なら代替性においてのみ、コミュニケーションは生じるからである。これは無機物を含めて、コミュニケーションの全ての形式にとって真実であるに違いない。複数の人達が軍隊に完全に溶け込んでしまうことはないように、機械のギアが完全にお互いに融け合うことがない。一つのギアが別のギアに影響を与えたとしても、これは誠実性や代替性だけを通じて起こることなのだ。レヴィナスが特徴的な人間の現象として考えた実在の分離は概してリアリティの一般的な特徴なのだ。上記のように第一哲学は倫理の中にではなく、実体と因果性の一般的な理論の中に見いだされるべきである。私は今や美学こそが倫理よりもこの種の学問分野にとってより良い名前であると主張したいのだ。》