●たとえば、男性に陣痛の大変さを理解させるために、電気的に陣痛を再現する装置とかがあるけど、VRが発達すると、そのような、感覚や経験の共有化がもっと高い精度をもって、様々な場面で行われるようになるのではないか。VRは一方で、虚構的世界への個としての引きこもりであるけど、他方で、感覚や経験をかなりの精度で直接的に共有化させられる。「わたしのこの痛み」と「あなたのその痛み」を交換することは原理的に不可能ではあるけど(「あなたのその痛み」の再現をわたしの「この痛み」として経験する、ことしかできない)、でも、その境界がなんとなく曖昧にはなってくるということはあるのではないだろうか。
下の引用は『森は考える』(エドゥアルド・コーン)からのものだけど、このような感覚が、技術によって再現されるようになると考えることはできないだろうか。
アヴィラの日常生活は、睡眠と夢見という第二の生活と絡みあっている。アヴィラにおいて眠ることとは、私たちのところで普通みられるような、限定された、孤独な、知覚を奪われた活動ではない。睡眠---電気がなく戸外に大きくさらされた、開けっ放しの草ぶき小屋のなかで多くの人々に囲まれた状態での睡眠---には、睡眠と覚醒が断続的に交互する。真夜中に目覚めて火のそばに座って寒さをしのぐこと、あるいは湯気を立てているワユーサ茶がなみなみと注がれたヒョウタンの椀を受け取ること、あるいはときには、満月の期間にはタチヨタカの声がよく聞かれ、さらに遠くのほうでジャガーのうなり声を聞くことさえもある。聴こえてきたこれらの声について夜中にその場で注釈するのを耳にして、目を覚ますこともある。このような絶え間のない中断のために、夢は覚醒へ、覚醒は夢へと、双方は絡み合いながら、こぼれ出す。夢---私自身のもの、同居人たちのものや私たちが共有した不思議なもの、さらにはイヌたちが見たものさえも---は、とりわけ森に住まう生き物や精霊を巻き込むことが非常に多かったために、私の民族誌的関心の大きな部分を占めるようになった。夢もまた、経験的なるものの一部であり、またある種の実在である。夢は世界から生じ、世界において作動するのであり、またその特別な論理と、その脆弱な効果の様式に通じることが、人間的なるものを超えた世界について何かを明らかにする助けになる。》
●ふと思ったのだが、『フラクタル』のネッサが『あの花』のめんまに転生(発展)したのではないか。今まで、何度トライしても、途中で観るのをやめてしまっていた『あの花』を最後まで観られた。