●お知らせ。明日、8月12日の東京新聞、夕刊に、ICCでやっている、オープン・スペース2016 メディア・コンシャス展の、谷口暁彦「私のようなもの/見ることについて」について書いた記事が掲載される予定です。
●おお、とうとうこれが読めるのか。「「オブジェクト」はわれわれが思う以上に面白い」(エリー・デューリング、清水高志柄沢祐輔)。
http://10plus1.jp/monthly/2016/08/pickup-01.php
《重要なのは、オブジェクトが本質的に関係的なものだということです。これはオブジェクトそれ自体を省略してしまうという意味ではありません。一方的にプロセスばかりを強調することは、究極的には、作者/作家の主体的なふるまい──つまり主体的な行為を最後の絶対的なものであるとして、絶え間なく観念やヴァーチュアリティを投影してゆくふるまい──に私たちを連れ戻すのです。これはロマン主義の立ち位置です。ドゥルーズやラトゥールが現実化してみせるのは、オブジェクトというのは、われわれが思う以上に面白いものなのだということです。オブジェクトはたとえばハイブリッドなものでもありうるし、準−客体でもある。さらにグレアム・ハーマンは、オブジェクト〈それ自体のうち〉に秘められた、究極の孤独な生についても語っています。》
《私がプロトタイプの概念を導入したのも、そうした理由によるものです。オブジェクトそのものを、プロジェクトとして見ることができるというのが、その基本的な考えです。それがあるプロジェクトの特定の局面の、限られた表現だけを与えるものだったとしてもです。プロジェクトは、オブジェクトを超えてあるのではなく、オブジェクトのなかにあるんです。またオブジェクトは、それ自身で未来との関係を持っている。未来とは外部に横たわっているものではありません。それは内部にあり、オブジェクトに閉じ込められているのです。私はこうしたオブジェクトのことを「未来的オブジェクト」と呼ぶことを提案しています。プロトタイプというのはアーキタイプ(あるいはパラディグマ、未来の制作のための青写真)ではありません。どちらかというとモデル化の作業におけるモデルのようなものです。》
《それは過剰というよりは、同時性の問題なんです。無限は2つのものによって始まります。──2つのパースペクティヴが、お互いを内に包摂することによって始まるのです。》
《実際のところ、無限というのは有限なものの錯綜なのです。》
(以上、エリー・デューリングの発言より)
●エリー・デューリングが言うような、それ自体が関係であるものとしての「オブジェクト」「プロトタイプ」という考えをひっくり返すと、ロザリンド・クラウスの言う、複数メディア間の関係(統合)の原理となり得る、共有されたひとつの慣習としての「メディウム=コンベンション」という考えになるのではないか。ひとかたまりの関係として既にあるものとしてのオブジェクトという概念の対になるものとして、ひとかたまりの関係を生成する原理としての慣習(諸メディアの接着剤としてのメディウム=コンベンション)という概念を置けるのではないか。
(エリー・デューリングの「レトロフューチャー」と、ロザリンド・クラウスの「時代遅れになったメディアを振り返ることを通じて(未来への投影でもあり、過去への想起でもあるような)メディウムを再発見する」という考えも、近いように思われる。)
●まあでも、メディウム=コンベンションみたいな考えは、オブジェクト指向の人たちには「人間的(志向的)」であり過ぎるということになるのだろう。エリー・デューリングは、「プロジェクトとしてのオブジェクト」という言い方をしている。
《ええ、物質(マテリアル)化されたプロジェクトということですね。通常われわれはプロジェクトは主体によってもたらされるものだと思っています。なにかものを志向的に投影(プロジェクト)する、というふうに。志向性についての現象学の考えは、たとえ現象学的な手法にこだわっていなくても、私たちに非常に強く残っています。こうした観点からは、オブジェクトそれら自体は、それらを活気づけようとする志向的な衝動の、死んだ副産物としてしか考えられません。私は、プロジェクトとしてのオブジェクトを考えたいんです。それが、主体と客体の二元論を超える方法だからです。オブジェクトは、同時にプロジェクトでもあるのです。》
(哲学的な文脈のなかで議論としての「相関主義批判」というのは分かるのだけど、哲学者ではないぼくとしては、もう少し人間的なレベルというか、「人間の縁で何に触れているか」のようなレベルで考えたいと言う感じはある。それは、ぼくにとってやはり「死」が大きな問題であるから。)
●次の引用は清水高志による発言。
《つまり、有限と無限(一と多)、主体と対象といった2種類の二項対立があって、それぞれを考えるためにも、それらの交点になるところが重要になってくるのです。ミシェル・セールは最近、幹細胞、万能細胞を喩えに哲学の構想を語っていますが、それは非常に興味深いものです。幹細胞が骨や臓器や血液、さまざまな細胞に変化するように、形而上学にとっても、複数の問題がそこで交差する中間点がある。「幹−形而上学(métaphysique souche)」というものがあるのだと、彼は言うのです。
多数性の共存とか、主体による綜合とか、そういったものを単独で考えるだけでは不十分で、複数のディレンマの交点から出発して思考する必要がある。プロトタイプの理論が提示しているのも、おそらくそういう問題ではないでしょうか。プロトタイプ論もまた、結局は主体的なものでしかないプロジェクトでもなく、多数性が漫然と展開されていくプロセスでもなく、美学に現われた有限と無限のディレンマを扱いながら、ついには対象というものにぶつかっています。それが、マテリアルなものとしての作品だと指摘しているわけです。》
●まだ、最初の方をちらっと読んだだけです。