●大きくて、雑な話。この世界を、論理のレイヤー、物理のレイヤー、情報(あるいは記号)のレイヤーという、三つのレイヤーで出来ているものと考えるとする。この時、論理のレイヤーを支配しているのは論理であり、物理のレイヤーを支配しているのは法則と計算であり、情報のレイヤーを支配しているのは経験あるいは美である、と言えるのではないか。
(言い換えれば、論理のレイヤーの探求は論理を用いて行われ、物理のレイヤーの探求は計算と法則の抽出によって行われ、情報のレイヤーへの探求は経験や美によって行われる、と。)
そして、この世界の情報のレイヤーにおいて起こっていることのすべては、「フィクション」であると言う事が出来ると考えられる。
ここで、情報、あるいは記号という時に想定されているのは、パース的な記号の過程だ。生物は、物理的過程だけでなく、記号(情報)的過程を生きる。誰か(解釈項)が、何か(対象)を、別の何か(記号内容)として解釈する。ダニ(解釈項)は、熱(対象)を、捕食対象(記号内容)として解釈する。世界を、価値の色付けの配置として解釈し、その解釈の中を生きる。このような過程を、記号的、あるいは情報的過程と考える。生物だけでなく、あらゆるモノが情報的過程をもつと考えれば、それは汎心論になるだろう。
大腸菌は、通常ブドウ糖を捕食対象とするが、人工的にブドウ糖の存在しない状況をつくると、その一部は乳糖を体内にとリ入れるようになるという。つまりこの時、大腸菌は、世界の記号的な価値の配置を(つまり世界観を)書き換えたことになる。このような出来事は「記号接地」と呼ばれる。
このような出来事(世界観---世界と記号との紐づけの配置---を変える)が起こるための領域全般をフィクションと考える。これを、大腸菌でさえフィクションを生きている、あるいは、大腸菌でさえ夢をみる、と表現したい。
(ウィニコットに従えば、「夢をみる」、「遊ぶ」とはまさに、世界と記号との紐づけの配置換えを行っている、ということになる。)
ぼくがフィクションについて考える時に、下地にあるのは、こんな感じの考えだ。